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2010. 8. 15

第99(日)時代劇という今

今日も龍馬傳に泣いた。

今日の龍馬は武器の購入に精を出した。それ自体は、聖人の振る舞いでもなんでもないが、そこに私利私欲から程遠い、利他の精神があった。

もちろん、そういう清き精神が、常にその後永遠に、そして万人の幸せに繋がるとは限らないが、本当の意味で矛盾を産み出すことなく世の中のタメ(=全ての人のため)になろうというなら、神様になるしか、ない。人間がやっていることなのだからそこまで見通すことはできないのだ、と応えるしかないだろう。
話はずれて、なるほどなと思ったのは、龍馬がやったことは、語学力でも、軍艦などの専門的な知識によってでもなく、日本の国を守りたいという、最上位、もしくは最根底の意志を貫いた、ということ。あとは亀山社中のそれぞれの能力がある意味分担した。龍馬自らは、トーマスグラバーという言葉の通じぬ腹黒の初動を促すきわどいコミュニケーションを果たした。どう転ぶかわからないきわどい分かれ道に無私であることが大きく働く。ここが泣き所のツボに他ならなかった。そしてこの体たらくの身体へ染み渡る。あるべき方向への初動を得る、こうなるように自分を雑巾のように絞り上げて、汚れた床に用いることは実に難しい。私利を捨てることが、いかに人の心を動かすか、志ある多くが知ってはいることであるが、それをほんとうに遂行できる者は僅かである。(政治家などはそうあってもらいたいものであるが。)龍馬傳はいわば、誰でもはできないそこをのみ一貫して描き出すために在ると思い込んで観てもいいのではないか。

もひとつ、長崎の芸子お元の一言「この国から逃げ出したい。」龍馬は自らの志しに油を注がれるように、社会の片鱗のその悲痛に反応する。この言葉は、百数十年前の当時の庶民が叫んだことであって、今の私たちに無縁な心と言えるかどうか。戦後に構築してきた豊かな日本はこの先も、「豊かな国」と言い続けられるだろうか。龍馬がそうであったように、何時の時代にも「鋭敏な感性」だけが、当たり前にあるはずの国とか大地とか空の存在危機に警鐘を鳴らす。

龍馬傳は、篤姫に比べて、人気が乏しい、その一理に龍馬傳は男の物語だとかいう話もちらほら。(経済もチャンネルも女性意見が握っているからとか・・)しかし誰にどれくらい支持されるかというマーケティングのようなものはこの際、棚上げておいて、何が今必要か?たかがテレビドラマとはいえ結局それが主題である。「私利のない鋭敏な感性」といえば事足りるとは思わないが、どちらにせよ龍馬さんはここでも、神格化される一途である。

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