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2010. 7. 18

第97(日)家型のいえ

デザイン界の巷で、ずいぶんと家型が普及してきた。子供が描くような勾配屋根をもったアレ。日本の家は昔から軒が出ているが、マンガ風に書けば、なぜかホームベースをひっくり返したような一筆書きのソレになる。陸屋根の一部の地域を除けば、この家型は万国共通のものなのだろうか。
だれでも知っているはずの、陳腐さに新たな新鮮味を再発見する。思えば、20世紀に入り、バウハウス住宅に始まり、家は無装飾のフラットルーフのでいい、と変転していった。それが、住宅デザインの現代型として世界を一巡し、そして、再び元の家型に戻って再度凱旋している。およそ一世紀に満たないその間、家は変わらず今も昔も勾配があるだろう、とはいささか呑気な意見で、この業界の先端部分は振り子のように、こっちに触れては、その反動で、反対のこっちに触れ戻るという運動を続けている。
前近代に見ていた家型の家と、現代デザインとして再発見される家型はしかし、当たり前の話、同じではない。前者は単純に、自然発生的で、慣習的なもの。今のそれには、やはり現代感覚に根ざした意図のようなものがある。バウハウス以降のフラットルーフは、例えば家の持っていた家らしさを良くも悪くも薄めた。それまでは、こういう建物はこういうカタチをしているはずだ、という社会的なコンセンサス、予定調和があった。が、フラットルーフ(に代表されるモダンデザイン)は図書館にでも、庁舎にでも、もしくは教会にも、ガソリンスタンドにも同一のカタチが適用されうるようになった。カタチはビルディングタイプに従わなくなった。そうして、もはやカタチは中身を表さない、そういう「カタチ」が氾濫してしまったあげくの果て、私たちは率直にそれとわかる「家らしき」カタチに、却って新鮮味を覚えるようになった。だが、家のカタチをしていれば、それでいいわけでもない。それならば、倉庫街にあるスレート葺きの切妻屋根の倉庫に心酔しなければならない。メーカーや工務店が作る今現時点で建っている家々を眺めつづけることができるはずである。私たちが家型の現在形として頷くもう一つのエッセンスは、そこに同時にフィクションを感じた時にではないだろうか。町並みとして、歴史として見てきたリアルなカタチにではなく、どこかに虚構を孕んだ家型に反応している。ヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子の家など、その他おとぎ話やマンガの中で表現される、想像上の家。もしくは、山々等の自然風景の縮図であると感じてもいい。あるいは森の木々の内側に仮想される空間を当てはめてもいい。今に再現される家型には、「家らしさ」という現実との親和性を保ちつつ、自然を抽象的に捉えるときの想像性や、絵本の中から飛び出してきたような空想性も込められる。人間はやはり見れないものを思い描くことを楽しみ、相反するものを抱きかかえる矛盾を案外心地良いと思う生き物なのだろう。決してリバイバルなどではない、そして、未来形だと銘打っているようなものでもない。たぶんここには現実と空想の双方を同時に楽しむ人間の現在がある。建築の面白いところなのだろう。

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