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2010. 5. 16

第94(日)パワースポット

いつごろからかわからないが、聖地の類がパワースポットと呼ばれるようになった。聖地、と断言すると、例えば宗教となんとなく結びついたりして他者と会話を共有しにくくなるが、POWERSPOTと言えば、仕事に疲れたおじさんが生ビールを補給する赤提灯のような気軽な雰囲気となって、なんとなく受け入れやすくなる。おそらくこれは神という存在をSOMETHING-GREATと言いかえるとリベラルに聞こえる、のと似ている。
はやっているからではないが、気になるパワースポットに脚を運んだ。熊本の幣立神宮。九大のK先生から聞いたのが最初だったが、その後もいろんな業種の人から異口同音にこの神社の存在を聞かされ、行かずにはおれなくなった。あの有名人H氏が時々に訪れるとか、日本中からここを訪れる人が絶えないとかなんとか。出向いた時がゴールデンウィークであったからでもあるが、およそこの慎ましい神社の規模に対して不自然なほどに、参拝客が訪れていた。社殿そのものは、おそらく見るからに江戸時代のもので、スケールもこじんまりしていて、正直見応えのある建築とは言えない。そのかわりに、神域としての清らかさは、凡人の我が身にも伝わってきた。大正天皇植樹とか皇太子植樹とか、基本的に天皇、宮内庁関連、つまり我が日本国民にとっての宗廟たる内実をもっているようであった。伊勢神宮が何人にとってもそうであるのと同じように、明らかにここはただならぬ場所である。そういえば、この神域の前の国道を登れば国生みの聖地、高千穂峡に繋がっている。
パワースポットと呼ばれているものの場所的概念と、建築で議論される場所とは、重ならない部分の方が大きいと思った。なぜなら、幣立神宮の魅力は、ほとんど全くといって良いほど、建築ではなく場所そのものの価値に因っているからだ。場所が人々を魅了するには建築は要らない、ということを証してしまっている。建築にとっては場所を要するわけで、場所とどのような関係を持つかが、作者にとっての宿命となる。彼が読み取ることのできる場所は、言葉や数字に置き換えられる。気候や地形、歴史その他、建築は場所の文脈の上で構想される。そうしたあげくに建築はできれば場所へ還元したいと願う。ところが、パワースポットは、そういう建築を飛び越えて、直接的に人々を魅了する。文脈など関係がない。なんとなく心地良い、とか清々しい、気分がすっきりした、という感覚の覚えが、より大きく、そしてより多くの人々に共通して起こる、ただそれだけの場所である。
もちろん、優れた建築というものにも、難しい話抜きに、上記のような感覚の覚えはある。例えば、わかりやすいところで、ガウディーのサグラダファミリア。すこしマニアックには奈良の元興寺や新薬師寺の内部。他にあるかもしれない。だがそういう建築は、建築そのものが場所化しているようなものである。場所があって、それに即応した建築がある、というより、建築が、もはや理屈っぽい存在を通り過ぎて、場所化しているのである。建築がそうなって始めて、人々を引き寄せるパワースポットの概念と均衡し、重なり始める。もしくは場所と建築が、本当の意味で手を結び、数段上等な場所をつくる。T和尚とそのあたりの話をしていて、大分、国東の富貴寺はおそらくそうだろう、という話になった。個人的には、山陰の三仏寺投入堂などもそうではないか、と思う。いかんせんT和尚と私の共有できる建築体験が少なかったから、とりあえず事例としてはそんなところだったが。
場所に備わる、理屈では感得出来ないなにかと建築の双方による魅力をもった場所。歴史を築きたくても築けない現代建築がそういう場所を作りうるのかどうか、そこが、今を生きる作者にとっての厳しい問いとなる。

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