「私たちは本当に自然が好きか?」という題名の本をたまたま、図書館の一般書コーナーで見つけた。本当に好きか?とまじまじと言われると、自信が亡くなってしまうそのはがゆさでもって、その本を手に取った。そういえば、建築と自然、というか植物との関係は、どこまででも歴史を遡ることができるし、一方では、先端的なデザインのあれこれにも植物との関係に挑んだ作品が話題になっている。それが先導してというわけでもないが、いわば植物趣味というか、巷ではちょっとした流行の感じでさえある。庭木と建築、とか、室内にプランター、などという古典的な植物と建築のありかたはもちろんではあるが、最近のものは、ありとあらゆる手法で、住宅、店舗、公共空間問わず、植物が飾られていて、目を見張るものがある。まるで絵画のように、植物で構成された壁画のようなものとか、小さなガラスの箱に閉じ込められた携帯植物だったり、空気中の水分で生き延び続ける宙づりの葉っぱとか、わずか数センチの繊維を床にした屋上緑化マットとか、つまり、それらの植物は土に根ざした固定的イメージからなんとも自由に離脱している。もはや植えられている、というより「飾られている」というニュアンスの方が近い。
学生の課題でも、こういう流行を敏感に捉えたものが少なくない。場合によっては、植物を組こむことが提案の力点だということが手法化している。雑誌で見知っている話題の作品をどこかで頭に描きながら、か細く繊細な植物が慎ましく収まった、ガラスの透明建築。植物は、決して自然の猛々しさを表すものではなく、建築も威厳とか、重厚さを世に知らしめるものではない。ガラスと細い鉄骨のフレームによる透明で繊細な建築は共に同列に置かれ、共に環境に慎ましくあろうという雰囲気である。建築(人間)が自然を制覇しようとしてきた表現や、建築(権威)が人々を統括しようという表現との潔い決別が、現代的な心地よさであるし、だから目に優しい。だがそういう建築と植物の(視覚的な)同化の面白さの一方、ある意味冷めた見方からすると、ガラスボックスに綺麗に納められた植物は、「どこかしら」かわいそう、という感覚が芽生えなくもない。そんなことを言うのなら、鉢植えの植物はみなかわいそうではないか、という微妙な話でもある。
「私たちは本当に自然が好きか?」という書では、こんなふうであった。「庭を造ることや、所有し鑑賞することがそのまま自然好きではない、趣味化、愛玩化した花卉盆栽園芸も日本の文化ではあるが、自然好きに直結はしない。」「この本来自然そのもののような日本人が、一方で「みどり」好きではないという一見矛盾するような状態こそここで問題にしたい・・」と厳しい自然観を呈示している。自然を愛玩することと、自然が好きであることは違うのだ、というためにこの書は多岐に渡る事例を引き出している。では、本当の自然好きとはどういうものかということになるのだが、ここでは、「自然の中に住んで、自然と応答すること、観察心に目覚めること、自然をかけがえのないものと考えて接すること」だと言っている。環境倫理の父といわれたアルド・レオポルド(1887-1948)は、ウィスコンシン郊外の農場や森林、草原での動植物の観察を愉しんだ。環境保護運動の先駆者と言われるヘンリーデビッドソロー(1817-62)はウォールデン湖ほとりでの2年半の自給自足生活を愉しんだ。彼らの行動と精神が再び掘り起こされている。一方、この文章を書いている窓辺から見える鉢植えの植物は、何事もないかのように、春風になびいている。
自然を愛玩するということと、それを制御し恩恵を引き出す精神とは諸刃の剣であって、同根である。愛犬を去勢することのようなものである。愛玩の中には、人間が自らの都合に合わせるための残酷さを備えている。この基本的精神は環境破壊を招いたそれとも同じだといえる。といっても、花卉盆栽をやってはいけないとか、ガラスケース樹木建築が即いけないと捉えると、これもまたせっかくの読書を無駄にしてしまう。手つかずの原生自然を信奉し、人間の干渉を排除していくという発想もやはりアンバランスである。これは自然を大事にしているのか、征服しているのかというシラミつぶしの分別もまた目的そのものではないはずだ。ただ、愛玩ではやはり不十分なのである。花卉盆栽やガラスケース樹木というだけでは、自然と人間の関係問題を良い方向へ導くことはできない。レオポルドやソローの態度は、にわかに見習いにくいかも知れないが、環境破壊の精神構造とは対局にある、これは知っておく必要があるだろう。ほんとうの意味で自然が好きだという態度は、利を引きだそうとする観察者ではなく、素朴な観察者、禁欲的な観察者のことを指している。愛玩よりも、敬愛とか、畏敬という意味が含まれるかもしれない。そして禁欲的であってもなおかつ、そこに深い愉しみを見いだすことのできる悟性を伴っている。私たちは禁欲的な観察ではとかく退屈なものである。ゆえに科学という改良手段によって利を求め、退屈を乗り越えてきた。これからは科学とはもう一方の叡智、悟性が自然を愉むことをまずは知っておいてよいもかもしれない。また、建築デザインにおいては、自然と人工の対比の中に互いが共生する視覚的美、機能美を探求してきた。だが、それらの美を超えねば、環境は存続しないのだということも、私たちは知っておかねばならないかもしれない。
2010. 4. 4