言葉の意味は、時代と共に変化する。最近知ったのは、「差別」(サベツ)と元仏教語の「差別」「シャベツ」。「シャベツ」は相対的に異なる個々を双方とも分け隔て無く受け入れることをいうのだそうだ。今日に言う差別(サベツ)は平等とは明らかに対義語であり、大事にされる部類と大事にされない部類とを分別し、両者に優劣を付ける意である。かつて両語が同義語であったころとはまるで反対の意味である。
耳に入る言葉で、なんとなくいつも引っかかってしまう言葉がある。「こだわり」の語。テレビや雑誌では、匠がこだわったとか、賢人がこだわったとか、なにか一所懸命にものごとを創り出す姿勢の人やモノに対してほど、「こだわる」が当てはめられる。辞書で引くと、「こだわる」は「拘る」と書く。ちょっとしたことを必要以上に気にする、とか、気持ちがとらわれる、拘泥(こうでい)する、の意である。「拘泥する」などとくると、はたしてこれは賢人の極意を表しているのだろうか?となる。思うに、賢人であればあるほど、産み出す対象に対する固定観念や恣意的な思い入れ、いわゆるこだわりという呪縛のようなものから自由なのではないか。だから、「こだわりの逸品」というのも、おかしい。拘っているようなものはとても逸品などではないわけで、正確には「拘りの境地を脱したがゆえの逸品」であろう。
たしかに、そういう人やモノには、門外漢にとっては些細な、ちょっとしたことへの尋常ならぬ熱意と受け取れる。外から見た傍観者が「こだわっている」と印象を持つのもわからないでもない。しかし、作り手とそのモノの内部にある実況としては「こだわり」とは似て非なる境地であると問いたい。何かにとらわれるというより、突き放して見る、つまり疑いをかける連続なのである。一所懸命であることや、こうでなくてはならないと苦労を重ねてきたことを、「こだわり」という語に託すのは、あまりにも傍観者的である。むしろ、疑い続ける原動力となった「自由」の意を押し当てるべきである。
衣食住、その他クリエイティブだとされる生業は少なくとも、常に「固執」と「確信」のハザマを彷徨っている。創造行為が、固執から産まれると思われがちな報道がどうも多いような気がするが、ここからは誤解が生まれ、すれ違いが増産されるばかりである。拘泥という状態の渦中にいる自らを含む数多の賢人予備軍にとっては「こだわり」の語は決して目標にはならないはずである。そろそろ、創造的であることの本当のあり方が日常語に溢れてくるようになったらいいと思う。これしかない、こうせねばならない、と「確信」するようになるには、その前には、つまらない拘りを捨て、代わりに起こる膨大な疑問を、一つ一つ解いていくという、長旅が必要なはずである。
2010. 2. 14