昨晩、犬が逃げた。もともと、洋犬なので家畜度が高く、飼い主から離れたがらない習癖ではあるのだが、ふとしたスキに放浪の旅に出る。サンポは事務所の往復がメインなので、たまには新鮮な風景を見たいのだろう。それはそれで構わない(一般的には飼い主の監督不行届ではある)のだが、できれば、自分で戻ってきて欲しいというのがある。昨日の戻り方にはしかし、不思議なことを感じた。平和町の楽只庵ではぐれて、もう夜中だから捜索は明日にと思っていた矢先に、女性から電話が。
「高宮駅から自転車で家に帰っていると後ろから黒い犬がずうーっと私の後ろをついてくるので、首輪に刻印されている電話番号を見つけて電話しました。」
車で青信号だらけの夜道を15分、そこに駆けつけると、女子高生らしき子に抱かれた黒い犬が、なんの悪びれもなくそこに居た。はぐれた平和町のそこから彼の最初の目的地高宮駅は人間だと40分歩く。黒い犬の住まいは駅のちょっと手前だから、駅までの道のりがわかったのならどうして、直接自分の家に戻らなかったのか、疑問がある。そしてもっと不思議なのは、駅から家路へいそぐ無数の人々からその女の子を選び出し、彼女になにかを確信して、再び30分の別の道のりを選択したことだ。見知らぬ人の後を追っての見知らぬ方角への賭の結果、黒い犬は自分の方へ主人を呼びつけることに成功した。
ある人からこんな話しを聞いたことがある。捨て猫のシャムを飼っていて、家の近くになるとシャムが門で待っているのがなんとなく直感でわかるというのである。ある日、いつものように、シャムに「門まで迎えに来ているように」と念ずると、やはりいつものように、そういうなにかを感じることができた。しかし途中で、そのなにか交信のようなものが、突然途切れた。どうしたのかな、と思って、家に着くと、シャムが門の外に通りがかった犬と真剣なにらみ合いをしていた。これで交信が途絶えたのだと合点したという。
人間も動物と同じようにさまざまに直感によって日々生きているはずである。でも動物とちがって人間には理性がある。直感というような根拠不明なものよりも、理屈というか理性というか意識のようなものが直感や無意識の外皮を覆う。「我思う、故に我我り」理性や意識こそが、人間存在の証だとも言われてきた。それはそれで尊いことであるが、黒い犬は、では不幸な生活を送っているかというとそうは言えない。黒い犬からすれば、飼い主は、理性や意識などへの過信により、便利なものをつかわずにいることを、笑われているのかもしれない。