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2009. 4. 19

第72(日)残材利用のすべ

冷蔵庫の中身を一覧し、スーパーの大安売り食材を睨み付けながら立ち上がる献立。あるいは、鍋底をはう僅かに残った煮物をダシにアレコレと。財布のヒモを握る多くの主婦はこうであろう。レヴィーストロースに言わせるなら、これはれっきとした「野生の思考」である。さもなくば、栄養とか、見栄えとか、好き嫌いとか、料理本にあったとか、料理番組を見てとか、実物不在のまま全体像が先行する献立もある。ものづくりの発想は、だいたいこの二軸に分けることができる。当然のことながら、建築にもそれがある。一般的な建築、普及的な建築とは、おおよそにおいて後者ではないだろうか。つまり理性的な計画学に基づき、全体像が象られ、それを応援するべく社会が用意した素材や技術を買うことによって造る。逆の言い方でもいい。予め適所が想定され商品棚に並べられたものから、計画者はより適材を選び、部品製作者の思惑どおりに用いる。その結果物は、より一般的な建築、理性的な建築となる。トイレの洗面器をトイレ用洗面器のリストから選ぶ。そういう常識・理性はそのまま素直に一般性を得る。当にこれこそが計画であり、またエンジニアリングの筋道としてもこうである。だがそこで、いや、その機器リストはどれも面白くないから、ここにあるアルミの漏斗を洗面器に用いよう、あるいはステンレスボウルではどうか、というふうに考えてしまう一派というか一味、が必ずいつなんどきも、どこにでも居る。彼らは分厚いカタログから一つをえらび出し、英数字混じりの型番を図面に記入する作業の不得手な人々である。そのかわり、目をつむって右手に触ったモノを即座に建築の部位に押し当てる強引な読解力のなにがしかを頼りに渡り歩く。正しくは計画者とは呼びにくい計画者の類である。
実際に作る施工側の世界にも、この二軸はきちんとある。建築の規模、請け負う建設会社の大小はともかく、実際に働く単位は独りの職人である。その職人の多くは、一般化した技術、普及化した技術の持ち主である。はっきりいってしまえば、貴方がやっても私がやっても大きな差のない技術、これが今日の建築技術の到達した境地である。普及する技術はまた、普及する商品に支えられているから、彼らは商品棚から選ばなくてはならない。当たり前の話、相応の対価を払わなければならないが、乱暴にいうなら、出来映えは保証される。(かりにしくじってもメーカーへの責任転嫁という極論もある。)だから、商品は職人がしくじりにくいよう開発が進められる。職人は、問題が起これば自分の技術を疑う前に、メーカーにまず電話をかけるようになる。これを正しく「栽培された技術」という。圧倒的な大多数がそういう発想の連鎖の中でモノを作っている最中、極少数が、その道から外れる。彼らの多くに共通するのは、商品棚に並んでいないものを好む、もしくは扱うことができる。また、価値があるかないか、ではなく、使えるか使えないか、で選ぶ。大工でいうなら、古い木造の解体現場から良いと思う古材を収集するとか、楓や栃などの、建築材料的には「雑木」と言われる扱いの難しい(乾燥収縮などのクセの多い)材料を建具の枠材などに平気で用いるとか、あるいは、近くの神社で落雷した木を競り落とし、木取り(その丸太から切り出すべき部材断面を読む)のために製材所に張り付く。などの所作があれば、その大工は立派に例の一味といえる。左官でいうなら、石灰(陸地の石灰岩を焼いたもの)主体のメーカー品でなく、貝灰(缶詰工場から産廃として出てくる貝殻を焼いたもの等)からオリジナルの漆喰を作る、とか、自ら山に分け入って、土を掘り、壁土に仕立てる、とか、その他身の回りの無数のモノから壁の素材を得るなどがその範疇である。
要するに、売っているものに飽き足らない技術は、身近にあるもの、余っているものを用いることのできる技術である。今、大量に出回っている栽培された技術の多くは、なによりもこれらが不得手である。「伝統的な技術」を現代的な意味付けのために言い換えれば、それは「野生の技術」であり、「残材利用術を備えた技術」ということになる。計画的でない計画者は、その一味である「野生の技術」者が身の回りからいつのまにか消えてしまうことのないよう、努めなければなるまい。

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