鳩山邦夫総務相による、東京中央郵便局の取り壊し現場視察の映像は新鮮であった。建築の保存問題、問題になってもほとんどのものが取り壊し立て替えとなる事例の中、国の閣僚クラスが保存側の先頭に立ち、しかも「抜き打ち」と称し解体現場で声を荒げ異議を唱える姿というのは、めったにないことである。もちろん、この建物の保存問題が、郵政民営化という国策の結果として導かれたものであるから、政治的な意味で国がらみであることには、間違いはない。背後にあるかもしれない政治的なことについて私は門外漢だが、国としては民営化され自由競争にしたからといって、文化財クラスを壊していいことにはならない、と親離れしようとする子供を、今更ながらしつけている様子でもある。
東京中央郵便局は、旧逓信省に属していた建築家吉田鉄郎(1884-1956)の設計である。「規格化は早くから実施され、建設過程の単純化と迅速性を目指した。しかしこのことの中には、日本人が制限された型の中でつつましく彼の個性を発揮するために、型に従うことがまた表現されている。建築家の小我はそれで制限され、日本の建築は、あの落ち着いた控えめな、倫理的な美しさを発展させることが出来たのであった。」(「日本の建築」1952の結語より抜粋)彼は建築家であると同時に日本建築の研究者でもあり、海外への紹介者でもあった。また、日本建築の思想を現代(当時)において実践するモダニストであった。日本建築の清純性、日常性、規格統一性は、自然を乗り越えようと言う意志より、同化する、もしくは寄り添うという根元的な感性が造り出したモノであり、これからの日本のモダニズム建築とその作者(建築家)には、同様の感性が必要だということが述べられた。このあたりの言及は、桂離宮という歴史の中にモダニズムの美を発見したブルーノタウトの感性と相通ずるものがあるだろう。(ちなみにタウトを桂へ案内したのは吉田鉄郎である。)「建築家の小我は殺されるべき・・」の文言は建築家とかデザイナーという職域の裾野が大きく広がった今では、表沙汰にしにくい物言いであるが、それでもどこか奥の方で異様な底光りをする一言ように思われる。
また、同書のはじめにはこういうことも書かれている。「(略)仏寺の章では、法隆寺には大陸的色彩が少なくないとか、法華堂、特にその背面は仏寺建築の代表作であるとか、夢殿よりも栄山寺の八角堂がいいとか、鳳凰堂はどちらかといえば工芸的建築である上に、大衆的で薫りの高さがないとか、勝手な批評を加え・・(略)」
つまり、吉田は建築史家のように中立的な視点で歴史を見ていたのではなく、作り手としての自分が参照すべき歴史を取捨選択していた。その取捨選択が、吉田の思想に他ならないし、数々の歴史書にはない痛快さを読者に感じさせるものに仕立てた。そしてなによりも、作り手としての歴史の見方が見習える教則本となった。そういう筆跡に刻印された思想を心に留めておきながら、東京中央郵便局という実作を見ると、愉しさは倍増する。有名な建築家が建てたものだから残そう、とか、大事そうな建物といった漠然とした感覚であっても、そういう感性が多くの人に自然に起こるようになると言うこと自体、すばらしい。だがこの際、建築の話題として一般化した珍しい事例なので欲が出るが、吉田鉄郎ほどの内容がある事例なら、もう少しだけ話のディティルを、専門知識としてではなく一般知識、あるいは物語として広く社会に紹介されてもといいように思う。各メディアが限られた行間に記す「モダニズム建築の代表例」に間違いはないが、外観が単純であるのに反して、本当は日本の美にかかわる意味深長な一物なのである。良いモノが残らないといけない時は、モノが筆授(言葉)では伝えきれないものを強く相補してくれる時である。伝えていくべきメッセージがモノとして刻印されてあるから、保存の必要性が生まれる。それらのメッセージがかき消されていくような表層的な、言ってみれば思い出見出し的な残り方は、骨抜きされた八方美人ということになる。
2009. 3. 8