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2009. 2. 15

第65(日)クソリアルライフ

色とりどりの山菜の小鉢、イワナの塩焼き、自家製の漬け物、無数の皿が薄暗い田舎間の一角に並べられた風景。ヤマブドウのジュースが垂らされ深い紫色になった焼酎お湯割り。もう一週間が経つが印象が消えない。山形のどこか知らぬとてつもない僻地の雪景色。とある雪国の過疎生活をブラウン管から垣間見た。バスでたどり着くことのできる隣町から、冬の唯一の移動手段であるスノーモービルで1時間半。積雪3mの上を滑走する。かつて林業が生きていた時代には数百人が集まり住む集落も今は一組の老夫婦と独り暮らしをする親類の計3名とのこと。先の夕食風景は、70を超える老夫婦のものだった。2人の一日は、まず雪かきから始まる。いわゆる日本海側の豪雪地だから、冬は3日に一度は屋根の積雪荷重を和らげてあげないと、建物が存続しない。住まうという営為としての雪かきが終わると、漬け物の仕込みとか、シミ大根の仕込みとか、イワナのつり上げとか、主人の本業はマタギ(猟師)であるから、吹雪でなければ、にぎりめしを抱えてウサギの足跡を追いかける。晴れた日には、丸一日かけて隣町に豆腐を買いに行く。これだけは保存が効かない。つまりは専ら、直接的に食物の調達に関わる仕事が多くの時間を占める。否、営みのほとんどすべては自らの衣食住に直結している。生活は消費する以前に生産活動そのものである。だからお金も掛からない代わりに、他者のための奉仕も少なくてすむ。逆に言うなら、自らの働きの中に他者の存在は小さい、自己完結度が高い、とそのようなことを以前記したこともあった。自給自足の生活というものが、慣れ親しんだ都市生活=消費生活の遠い向こうにあるから、そんな番組に釘付けになる。
終始自然を相手に仕事をする自給自足の生活は、都市生活者にとってのバーチャルなユートピアということであるが、その前に、消費生活そのものがバーチャル化の傾向を持っている。最も卑近な事例が、昨今の金融経済の破綻である。1でしかないものを10に見せかけたり、将来100になることを目論んだりというシステムの崩壊である。壊れるとそれはでっち上げの仮想であったことが判明する。また、これも度々話に出すが、マグロの切り身が海を泳いでいると思っている子供達の存在。モノを消費するだけの生活は生身のモノを捉える機会を得ない。また、大量生産の現場は、モノはモノ以外の何者でもない。モノに作り手の心が宿るなどとは考えない。死身か不死身かが問題であって、生身は厭われる。
都市であろうが田舎であろうが、現代生活に自給自足生活的なクソリアルな生産活動をどれだけ盛り込むことができるか。それは、モノや自然を物質としてしか捉えない非アニミズム的思想にいつのまにかすり替えられてしまった現代日本人の心身の健康回復に関わるだろうし、さらには環境問題を起こした根幹にも関わるだろう。尤も、そういう言説は私が言わずとも世間の知恵者が既に警鐘している。それらは得てして教養の一方通行であったが、今頃は妙にリアルな説得力を持ち始めてきたように思う。

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