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2009. 2. 1

第64(日)「犠牲の燈」抜粋

「建築の七燈」(ジョンラスキン)における「犠牲の燈」を先週取り上げたが、その内容に比してあまりにも軽率に扱ってしまったように思うので、今日は訳文をピックアップして追記しておきたい。
「信仰的なものや記念的な建築は、他のものより一層精神的な事柄が深く関与していなければならない」
「我々にとって純粋な建築と為り得るものとして、望ましい「捧げ物」あるいは神への「生け贄」としての精神を有していることが重要なのである」
「最小の経費で、外見上最大の結果を生み出そうと願う、現代(これが書かれた19世紀中を示す)に拡がっている意識とは相反する法則を導く燈なのである。」
「労働の結果によって出来上がり、単に高価さだけではなく、物質とそれに見合う労働にかけた時間が、外見上の結果とは無関係であっても、神に捧げるべき供え物だと言いたい。」
「精神的な生け贄だけが必要不可欠になったまさにその時点・・・」
「技術や宝も、力も心も、時間も苦労も神へ献納物として敬虔さをもって捧げることに努めるべきだ。」
「私は大理石の教会を、教会自身のために微塵も要求していない。教会を建てる人々の精神を要求しているのだ。」

教会も寺院も、その精神的背景も縁の遠いものとなってしまった現代の私たちにとっては、これらの発言は時代錯誤で、実に暑苦しい説教に聞こえてしまうか、あるいは、鮮度のある理想として捉えることができるかのどちらかである。また、言い換えるなら、「大文字の建築」が存在した時代、「建築」の主導原理を宗教建築が導いていた時代の理想であって、現代には当てはめにくいとするか、あるいはむしろ、現代建築の空隙を言い当てている、と捉えるかの分かれ道でもある。
かつての「建築」には人による人以外の世界への「際限なき」献身の安住地があった。現代は、自由資本主義社会に根ざした対物対人的な取引だから、建築の精神力は常に対価(費用)の量、つまりモノの力に吹きさらされているということでもある。

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