派遣労働者の解雇の様子が、年を越えても止むことなく聞こえてくる。自分は同じ立場ではないとはゆえ、人ごとではない某かを受け止める。雇用と被雇用の関係は言うまでもなく互いの利益が根底にあって、これら派遣の人々はそれらの取引が極めて短期的、言葉が悪いが「行き摺り」の関係が露わになったということだろう。表には企業側の非情が伝わりやすいが、関係は両者によってつくられる、と客観的に考えることもできる。とはいえ、大手企業(特に大手自動車会社)のこれらの迅速非情な対応から見て、資本主義経済がこういうリセットが必要なことぐらいは予め解っていたのだろうから、確信犯といえなくもない。
この問題は、源流を遡ればキリもない。雇用者を単なる労働力としか見ていなかった経営者が悪いとも、そもそもそんな経済状況を制御できなかった政治がいけないとも、なんとでも言うことができる。殊、同じものづくりに関わる立場としては、モノを作る量、すなわち大量生産に多くを支えられた社会構造を今更ながら疑問視したくなる。もちろん、大量生産社会への体系的な批判はすでに過去にあった。70年代始め、シューマッハ(経済学者/F1レーサーではない)がスモールイズビューティフル、そして大量生産と手工業の中間規模の生産が相応しいという中間工業の概念を打ち建てた。もっと辿るなら、19世紀にはアーツアンドクラフツ運動もあった。工場で生産されるモノの質への疑い、工場労働者の非人間的な生産環境への疑い、といったものであった。他にもあるのかもしれない。だが、そういう「警鐘」の時代をくぐり抜けて、量産社会はグローバリズム社会へと発展、改名し、その核心は不幸にも今日に「継承」されてしまった。生産物も生産者もモノ化の原理を強めていく、これが継承されてきた。モノの原理とは、受容的であるより排他的であり、唯一無二というより代替可能であり、恒久的というより消費され、古くなる類のものである。その極まりが、今、ヒトの身の上に起こっているということになる。
もちろんモノ化は、大量にモノをつくる大企業だけに起こっているのでもない。ヒトをモノのように殺める理解しがたい犯罪もさることながら、ペット税導入議論の中に取り上げられた、「大きくなりすぎたから引き取って欲しい」という、何よりも利便が勝ってしまう飼い主の話などにも現れている。ヒトとヒト、ヒトとイキモノ、ヒトとモノ、ヒトはあらゆる他者をモノとして見ているし、そのように見られている。日常に巣くう「モノ化」が日々、顕れている。
石原慎太郎氏が、年始の新聞コラムで、人間の欲望が今日の世界規模の問題の根源である、と述べてあった。単純であるが正しい。そして、モノ化の原理とは当にその欲望が育てたものの具体的な表現に他ならない。石原氏はそれ以上説教がましいことを書いてはいなかったが、言うまでもなく現代人は各々の欲望を抑制すべきだと行間に述べていたことになる。それに対して、モノの原理に陥らないということはどういうことかというと、受容的であろうとすることであり、代替できない特質を見つけることであり、使い古されないなにかを大事にすることだ、ということに、自動的になる。欲を棄てよと言われるよりなにかができそうな気がする。
2009. 1. 12