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2008. 11. 2

第55(日)エゴロジー

テレビでお馴染みのエジプト研究者、吉村作治氏の講演会に立ち寄った。「エゴロジーからエコロジーへ」ダジャレで始まる表題が臭わせるごとく、冗談の中の真意か、真意かと思えば冗談か、徹底した受け狙いの話ぶりであった。そんな内容のさなかからおもむろに、簡潔明瞭な結論が導き出された。それは、日本の神社で行われるお祭りが、古代エジプトの祭祀慣習ととても似ているというもの。人間という存在の上に、姿の見えない神が存在し、自然を支配している。人は八百万の神たち、そして自然を畏れ、敬う。こういう構図が、結局は政治キャンペーンや、科学技術による解決よりも、環境問題の解決に有効なのではないかというものであった。こういう多神論的、古代思想的なアンチ科学論は、哲学者梅原猛の著書でも読んだことがあった。また、第52(日)で書いた佐伯啓思氏の書でも、近代資本主義の盲点として、宗教(心)の欠落が指摘されていた。ドイツの社会学者マックスウェーバーは、資本主義社会の源流の一つとしてキリスト教プロテスタントの一派、カルヴァン派を辿っている。彼らは、カトリックの教会内における宗教的儀式の類を信仰の形骸化とし、その代わり、自身の中に内なる神を見いだすべく、日常生活の中に勤勉・粛正の戒律を打ち立てる。これらの日々の行いの結果物として、資本という富が結実し、これが信仰の証となる。そして、これらの富は積極的に社会に寄進するべきというメセナの精神が伴う。このような宗教的倫理は、産業革命、科学の進歩に従い、個々人の宗教観の弱体化と共に、次第に精神的な根幹が骨抜きにされ、「富の蓄積」ということだけが輪郭を残すようになっていった。つまり、今日の資本主義は、この勤勉と粛正という宗教的思想が変形し、不完全なものとして継続しているもの、であるという。
大学時代に、宗教などの是非論を肴に夜通し議論しあう友が居た。彼の意見は終始、「宗教は科学が進展する以前の、人間が仮に必要とした便宜的な真理であって、事実を言い当てているものではない」というようなもの。それに対して「宗教を持たなかった民族というのは歴史的に存在しない、それを全部否定できるのか」というように。UFO、幽霊などの存否説さながらの紋切り型をくり返した。もはや、議論は地球の存亡にまで繋がっている。ひとまずは、宗教の信心不信心などというところには触れないにしても、(哲学を含む)科学は人間や自然が生きていくための規範となりうるのか、というシンプルな問いから発するのが良いのかもしれない。

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