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2008. 10. 26

第54(日)ルサンチマン

蒟蒻ゼリーをのどに詰まらせて、という話題に、思考回路を詰まらせた。死者の報道に添えられるものは「欠陥商品」のレッテルであるが、そのほとぼりがさめる一方では、「餅や飴に詰まらせる事例の方が圧倒的であるのに、なぜこんにゃくゼリーだけがとがめられるのか。」という意見が勃発する。現実には米やパン、そしてお粥でも詰まらせる事例があるのだということが浮き彫りになった。水でさえ窒息するのだから、あたりまえといえばあたりまえか。「餅を食べる頻度の方が、こんにゃくゼリーを食べる頻度よりも圧倒的に高いからこの統計は鵜呑みにできない」「餅はむかしから詰まりやすいことがわかった上での過失である、餅のせいではない」擁護説、駆逐説、盛んな議論が林立する中で、こんにゃくゼリーを含めて、その過失が咎められるものとそうでないものの違いに関して、不謹慎ながら心が留まる。どこに分岐点があるのだろう。
例えば餅の場合は、仮に事故が起きてもその商品が、昔から在る餅より詰まりやすいというものでないなら、本人がいけなかったで済んでしまう。米やおにぎり、パンしかり。もし、こんにゃくゼリーという食べ物が手工業の時代から私たちが慣れ親しんでいたもの、つまり、餅と同じようなものであったなら、仮にそれが工業製品であったとしても、事件は事件にならなかったのではないだろうか。だがこれらは特定の企業が開発し、創り出し、量産して商品として初めて世に現れた。製造を中止した会社のものは販売からおよそ20年、同種の製品の2/3をシェアしていて、昨年の売り上げは100億云々。彼ら製造者は蒟蒻の健康性を遍く社会に恵むために、誰もが作り得ない製品の質を追求してきた。だが、同時に利益も得た。被害者はこういう社会的優越のバックボーンを放任することは出来ない。それどころか、優越していればいるほど、憤りの感情は芽生えるはずである。それは決してこれらの製造に関わった全ての人へではなく、その本質的努力と賞賛と報酬を得た、限られた人たちに対してであろう。工業製品、もしくは工業化社会のモノを介してルサンチマン((http://ja.wikipedia.org/wiki/ルサンチマン)→wiki)が巣くっている。

建築も、モノを創り出す行為であり、場合によっては不特定の人々がそこに居合わせる。(その普遍性に対して追求心の灯火が宿るのだが)例えばここに手摺りをつけたくなくても、そこから落ちる人を想像すると、建築的理想は抑制せざるおえない。山に登れば、手摺りなどなくもっと危ない場所が、堂々と公に公開され、毎日何百人とそこを通過し、そして時々に事故も起こる。海水浴で海に入れば、溺死の門戸を叩いたのと同じである。だれも海の構造を疑うことはない。だがそんな場所が建築にあるなら、そのままでは済まされないわけである。
建築は、餅ではなくこんにゃくゼリーと同じ運命である。

 

 

 

 

 

2008/10/19 秋晴れ

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