「人間は進歩してきたのか/佐伯啓思/php新書」を移動の間、読み直し始めた。新書然とした、なんとも仰々しいタイトルが恥ずかしいので、表紙を隠すように。だが中身はというと、やはり新書である、不勉強の我が身にとっては、思想史の通史として大変勉強になる。その中で、スペインの哲学者オルテガ(1883-1955)のいう「危機の時代」の記述に目がとまった。
「古い世界観や信念体系がもはや十分な説得力を持たない、しかし、かといって過ぎ去ってしまったわけではない。一方、新しい世界観はまだ確立せず、様々な新しい試みが出てくる。こうした中で、人々は確かな信念をもつことができず、古いものと新しいものの狭間を彷徨い、世界観の混乱に陥る。」このような「危機の時代」が西欧史には少なくとも3度あったいう。一つはローマの共和制~帝政の崩壊(古代の崩壊)、次に中世から近世へ移項する14~17世紀の間、そして第三は20世紀の初頭。例えば、14世紀のヨーロッパでは、それまで中世世界が握りしめていたキリスト教による神を中心とした世界認識、ローマ教皇を軸にした社会観がうまく機能しなくなってくる。1517年にはルターが宗教改革を促し、ヨーロッパ中に宗教戦争が蔓延する。そういった古いパラダイムが崩壊し始めることにより、ルネッサンスという神ではなくあくまでも人間を中心にして生きようという人文主義や、ローマ、ギリシャ等の古典の再解釈といった新しい試みが為されるが、次の確かなものにはなりえない。(ルネサンスは思想史的にはパラダイムシフトに値しないという扱いである。)もはや何の確信も確かな信念も持ち得ない混沌とした状況のなかで、唯一確かなものはなにかと模索がくり返される。デカルト(1596-1650)は「我思う、ゆえに我有り」に至った。つまり、何も信ずることができない中で、何も信ずることができないと思っている、自分の存在は少なくとも信じられる、いうことである。そうして、それまでのスコラ哲学にもとづく信仰による真理の追究ではなく、人間の理性による真理の追求として近代哲学、自然科学への一歩が差し出される。1610年にガリレオが初めて造った望遠鏡により木星の衛星を発見したり、ニュートン(1643-1727)が1687年、万有引力の法則を発表するなど、という連鎖である。暗い中世から200年以上の空白を送り、ようやく近代合理主義に基づく社会の萌芽が始まる、というのである。
なにか新しい世界観が展開する直前のというのは、その世界観の前身なるものが堂々と積み上げられている、というのではなく、むしろ混沌としていて、先行きがほとんど不透明な状態に陥る「危機の時代」。思いたる節有り。グローバル資本主義の煮詰まりはいうまでもなく、宗教戦争、様々な試み、古いものと新しいものの間の彷徨、確信できるものの欠落感、当に今は「危機の時代」と疑いたくなるのである。
2008. 10. 12