吉阪隆正の父、俊蔵は京都の造り酒屋に生まれた。東大卒業後、内務省を経て1919年のパリ講話会議全権随員~28年には国際労働機関理事会日本政府代表事務所長としてジュネーブに駐在した。息子隆正は当地にて国際連盟が用意した中学校に通う。そこでデュプイという先生に影響を受ける。世界各地の地図を描きながら、各地の風土やその価値観がその地の住居に表れるということを学び、後に各民族間の相互理解のためには建築学を学ぶべきと志を定めたという。ついでに集印帳にスケッチを描くという父俊蔵の習慣をも素直に受け継いでいる。
建築を目指す動機というのは、人それぞれである。子供のころ、赤いスポーツカーに乗ってきた設計士がかっこよかった、とか、テレビに出てくる有名な建築家にあこがれて、とか、後世に残る仕事だから、とか。ちなみに自分は、そういう話になる契機のようなものは殆ど皆無で、建築家といえば、大学に入るまでガウディーも丹下健三も知らなかった。強いて言えば、幼稚園のころから国語の点数が悪かったので、理系しか道が残されていないという切実な消去法だけがあった。そこから建築に絞ったのも、建築家になれば、そこら辺では見たことのない建築を造ることができる、というナイーブな期待であった。こんな感じで、自分には話になるようなはっきりとした物語がないものだから、人には、建築を志す動機というのはさして重要ではないなどと言い続けてきた。だが、吉阪さんの生い立ちを見ると、動機は重要ではないとはとても言えない。建築は面白そうである、という思いつきの背景が大きい。建築が雨風をしのぐだけではなく、その時の社会のパラダイム(規範)、文化、あるいは所有者、設計者の個人的な背景といった、いわゆるメタ概念を含みうることは言うまでもない。吉阪さんの場合は、建築が考え方の異なる人同士のコミュニケーションツールとなることを期待した。それは地球の平和という最も大きな宿命であった。吉阪さんの父は、先に触れたとおり、国を代表する外交の人であり、文字通りその背中を見ながら育った。そこからごく自然に、人と人との和を大事にしようという思想の基壇が築かれていったことを想像する。かっこいい建築家像とか、自己実現、自己表現(自己満足)が起点となった建築とは、少なくとも背景において次元が異なるのである。
吉阪さんの起こした概念の一つ、「不連続統一体」。これは、相反する小さな個が尊重されながらも、大きな全体が調和を保つように個々が働いている、というもの。この構造、もしくは思想が言葉になったのは、ブラジルのサンパウロのコンペ(1954)の時だという。「共同設計をやっていくためには個々の力を出し切ってようやく全体が出てくるのであって、組織が先にあって個々の役割を分けていくのではない」。結果としての形よりも、その過程の設計方法として考えられたものだという。つまりは、個々を束ねる、より大きな骨格よりも、互いのコミュニケーション能力を頼りに全体をまとめていこうというものだ。当に今、世界の構造がそうならざる負えない状況である。国家、県、市、地域(共同体)という個人から見たより大きな骨格はいみじくも形骸化の方向にあり、むしろ個同士のコミュニケーションの集積でしか全体を作り得ない、という創発的な構造である。吉阪さんをとりまく評伝には、「その時はよくわからないが、ずっと時間が経ってからじわじわと解ってくる」といったものが多いが、この不連続統一体もそういう側面を持っているようである。
結局は、あたかも形とその構成図を想起させるような不連続統一体という概念も、発端は人間同士の関係構造に関するものであった。結果としての形である前にそれを産むプロセスの構造を重要視したということである。各々が単純に全体から与えられた役割を分業するというのではなく、各々の力量に応じてその能力を発揮しつつ全体が形成されていく。語弊があるかもしれないが、このことは結果物よりも上位の概念だ、と言わんばかりである。出来上がった一つの建築が、世界の人々との交流を媒介する、そこから吉阪さんは建築を目指し始めた。そしてその後、一つの建築をつくる過程の中にも人間同士がコミュニケーションを良く行わねば、結果をもたらさないことを力説し続けた。そして、良く行わねば、建築云々以前に、人間が集まって出来る全体=地球社会が立ちゆかなくなることの原理を先読みした。
吉阪さんは早稲田での最終講義にこんな締めくくりをしたそうである。
「どうしたら寛容をもって人と人とが仲良くし、戦争のない生活を送ることが出来るだろうか。どうしたら人間は機械とならずに人間らしい生活を営むことができるだろうか。私はそのことのためにいろいろとやってきたように思う。」