金曜日、世田谷美術館へ足を運んだ。師の個展のオープニング。建築、美術、デザイン界の大御所がちらほらと。道すがら平松剛の「磯崎新の都庁」を読みながらここまで来る。ついさきほど砧公園のベンチで読み当たったシーンに登場してきたばかりの人々が、現実の人となって目前に現れた。磯崎氏が出てくれば当然、宮脇愛子氏が、そして当時丹下健三の元で都庁を設計した古市徹雄氏、というぐあいに、なんだか不思議な感触であった。
立ち見を含む100名前後が囲む小ホールにて、(建築家の)磯崎新氏、メディアアーティストの山口勝弘氏、そしてインダストリアルデザイナーの榮久庵 憲司氏の順に祝辞が述べられた。それぞれ、「シェイクスピアに出てくる道化」「奇想の人」「孫悟空みたいな人」という喩えをこの度の主人公石山修武に貼付けた。当人の資質の只ならぬ様子を、やはり凡庸な褒め言葉に託すような人たちではなかった。その中で、最も印象に残ったのは言わずもがな「孫悟空」である。猿みたいな人は世の中にたくさんいるけれども、石山修武に限ってはそれとはほど遠い。キントン雲に乗って飛び回っているような、という比喩でもない。三蔵法師に仕えながら長い道のりを同行する悪そう坊主、ではなく猿。天竺からありがたい教典を持ち帰るという大きな目的を孕んでの道程、孫悟空は必ずしも従順に滅私奉公を勤めたわけではなく、数々の出来心、不祥事を繰り返した。ある意味小さな悪事の積み重ねの末、万人を救うための役目を果たす。最後は悪事=利己的ではなく、大きな利他行を遂行する。榮久庵氏いわく、最後に仕上げとして天竺にいけるかどうか、これからが楽しみだと。
なるほど、孫悟空。あれは猿だったが、人間の一つの筋道を暗喩していたのだ。小さな悪事と大きな利他。
2008. 6. 29