一昨年のちょうど今頃、「なにもしなくてもそこに居たくなる空間」という課題を学生に投げかけていた。大きさは一室、茶室程度で、場所は、小石原の行者杉林のどこか、という条件。敷地設定はともかく、なにもしなくて・・そこに居たくなるとは、今思うとずいぶん抽象的な投げかけ、というより建築というハテナマークの海へ学生を放り投げたような課題であったことを思い返す。建築は絵画や彫刻などのファインアート(純粋芸術)には収まらない=実利的な機能があって初めて社会に現れるから、「なにもしなくても」ほんとにいいのか?あるいはどういう状態が「なにもしない」状態なのか?息をすることだけが許される空間?などといった安手の禅問答が飛び交った。なにもしないことを前提にした空間など建築ではないというとらえ方があっただろう。しかし、出題者の意図は逆で、建築の究極の目的は、つまるところ、機能的(=実利的)か否かを超えたところにあるなにか、ということを呼びかけたのだと思う。そういう意味では、極めて建築の基本に忠実な与件であったと、今でも思える。
小雨の降る中、高速道路を1時間半。今日会ったお医者さんは、別荘を建てたいという。数件の医院や老人施設を切り盛りされていて、24時間、出動の可能性あり、寝ても覚めても医者を止めることができないという。前日の夜になってみないとその日を休日にできるかどうか解らないという過酷な労働環境だから、旅館の予約さえママならぬ。経費はかかるが別荘だという。ちなみに、どんな空間がいいか聞いてみた。すると、「心地よい空間」の一句。これが打合せの最後までくり返され得た。
単刀直入とは当にこのこと、真髄にグサリと入ってきた。「せっかくの別荘地なので、風景が美しく見える」とか「小鳥のさえずりが感じられる」とか「ゆっくり音楽が聴ける」などという各論を軽く飛び越えてきた。同時に、どこかでそんな答えを予測していた我が身を少し縮めた。心地よい空間の中身は貴方が考えなさい、ということである。2年前、学生を放り投げたところに今度は自分が入る番が来た。
2008. 6. 22