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2008. 4. 13

第33(日)常識と非常識

自分の中に、常識的でない、つまり世間一般と(意見の)異なるところが目下の所3つある。一つは朝飯。健康的な生活基盤を問う時にかならず挙げられる。食べないと頭の回転が上がらないとか、いい仕事ができないとか、あの手この手で脅かされるが、自分に限っては、まったくそういう状況には身に覚えがない。午前中はコーヒー一杯、前日接種した食料を内燃させることにより、この20年生きてきた。「栄養学的には前日のもので午前中は十分活動可能である」という、朝飯不要説をようやく先日、小耳に挟んだ。狭かった肩身は少し広くなった。
二つ目は、職住分離説。これも独立するにあたって、ほとんどの人から、仕事場とプライベートな生活とは切り離した方がいいと言われた。北九州の研究所から事務所機能を回収する時に、1年だけ自宅を事務所としたことがあった。スタッフが朝勝手口から入ってくるという状況に対して、案の定身内からブーイングが起こり、その後事務所を近くに移した。だが、少なくとも心理的には、事務所が寝室の隣にあっても、私はいっこうに構わないと思っている。仕事や建築に関する想念を押さえることは出来ないから、実体としての事務所が近かろうが遠かろうが、関係がない。むしろ仕事机の側に寝床が横たわっていて欲しいと思う。眠くなる寸前まで仕事が続けられる。起きたら、起きあがったその身で仕事が始められる。職住近接というより、職住不二。これでいい。
そして三つ目は、昼休みについて。二つ目に続いて、職食不二の問題。昼に1時間の休みがあるのは現代日本の、もしくは労働環境における世界基準なのかもしれないが、私にはこの風習がまったくない。昼ご飯の時間は正味10分。その日の午後を俯瞰する10分でもある。そこでボーっとすることができずに、机に直ぐ戻る。ちなみに昼も夜もそこにある食べ物口に運びながらパソコンで仕事をする人間を私は知っている。仕事は質量共に天才の領域であるが、彼女のキーボードは隙間が食べ物のカスで目詰めされている。結局、私の昼休みを堪能した記憶は、幼稚園~高校ぐらいまでで、この風習の定着は勤め時代からであったと思われる。改めてこう書くと、自分はまるで便利な機械のようなイメージになるが、ちゃんと休憩に変わるなにかが行われていることも触れなければなるまい。かつて勤め時代(大学の研究室)は、眠たくなれば学内の図書館で調べモノをすると言って、1時間ぐらい寝にいっていた。今はそんなアリバイに寄与する図書館はないが、飯当番(当事務所の)を率先してやるところなどは、気分転換のさいたるものである。昼休みは飯込み10分というこの労働環境に、最近ブーイングが起こった。スタッフからである。昼休みをくれと。制限したつもりではなかったが確かに。労働組合が発足される前になんとか考えなければなるまい。
しかし、これら3つの非常識を単純に足し合わせるとえらいことになる。ベットから起きあがったら朝飯も喰わず、そのまま図面に張り付き、昼飯10分、夜飯10分、そして眠りこける寸前まで机にこびりついている製図マシーン。現実はそうなってはいない、というところでかろうじて社会と繋がっている。

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