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2008. 3. 31

第31(日)その時、肉体が。

会社員事務がその会話を切り出した。
「ねえ、もし次に生まれかわったらなんになりたい?」
電機メーカークリエーター:「そうだなあ、俺はミュージシャンかな。いや、音楽家っていった方が本意かな。ロジョーでやる感じのイメージじゃあない。後年の坂本龍一なんかがいいなあ。今は会社員なんかしているけど、本当は好きな音楽で食えたらいいなあと今でも思っているよ。でも当然、食えないからな・・」
公立中学教員:「俺は料理人かな。食うこと好きだから」
ライター:「それ、料理が「好きだ」というのが先だろうが」
公立中学教員「・・」

カラスの鳴声が、静かな住宅街にコダマした。こじんまりした街であることが室内に伝わった。

広告代理店勤務:「私は男に生まれたい。女って、やっぱりなにかをしようと思ったら損よ。やればやるほど、今の日本ではなんだかんだいって女であることが壁にぶつかるのよ。」
会社員営業:「そんなことねーだろー。今は女の方が伸び伸びしているだろー。男の方がなんかセコセコ生きてるじゃねー。」「そういえばおまえはどうなんだよー。」彼は気をきかせてあまり場の盛り上がりに乗らない自営業主に話を振った。
自営業主:「・・俺は正直、生まれかわりたくねーなー。。もう一度ここまでの人生をまた、ゼロから築きあげなきゃいけないと思うと、ちょっとなー。小学校高学年ぐらいから受験戦争に参戦だろ?高校は、1~2年はよかったけど3年になるとやはりそれに立ち向かう兵士。受験という重圧の日々の夢を今でも見るよ。なんか妙な病気もたくさんしたし。大学の1~3年までは人生最大の小休止だったけども、4年生の研究室配属から以降は、登る一方の山登りさ。おそらく社会人引退まで、自分の能力とそれを取り巻く社会との決闘が延々とつづくんだ。夢や希望もあるけど、そのぶん傷つき、落胆が尽きない。それをくり返しているうちに、傷つくのが怖くていつもびくびくしながら仕事をするネガティブな自分がむくむくと育っている。これを老獪というのかと。老いるって、中国の七賢人みたいに、時間と心の余裕が出てきて、世の中を達観するような生活環境を得ては、大局的な視野、そして寛容な人間に成っていくんだろう、とガキの時はおもっていた。けど、とんだ誤算だった。そんな人間殆どいない。自分の身の回りの老人を見る限り、老化とは少なくとも心の次元では退化しているんじゃないかとさえ思う。寛容や、利他の反対。こうでなくてはいけない、という不自由な見方、そして自分にとっての利害の分別。まあ、老化の問題以前に、人は本当に進化しているのかと疑うほどに、今のニュースの内容は厳しいよね。自分の子供が将来人を殺しはしないかと思うと、気が気でなくなる。気が付くとこんな思いしてまで自分はなんで存在しているんだろうと。生まれなくて済むんであれば・・・」
ライター:「オマエ戦いすぎなんだよ、手に握っている竹槍を下ろせ。」(一同、笑)
そして、たわいもないこの話は、その就職浪人生の話を最後に再び蒸し返されることはなかった。
「僕もずいぶんそのことに悩みました。なんで生まれてくるんだろうと。でもいろんなものを雑読しているうちに、もしかしたらって思った。精神と物質という対比の時の「物質」って人間にとってどういう意味が在るんだろうって考えたときに、坂口安吾の「日本文化私観」(1946)の内容を思い出したんです。ちょっと正確な文言は忘れましたが、おおよそこんなでした。<京都や奈良の社寺をはじめとする国宝や文化財は、太平洋戦争で燃えてしまっても一向に構わなかった。それがなくなって日本の文化が継承できなくなるようでは、それは本当の文化ではない、継承すべきはモノではなく人の心に宿り続ける精神的な文化である。>つまりモノって本当は要らないんじゃないかって、いうことですね。でも、僕たちはそんなこといったってモノに依存していますよねー。坂口安吾の理想は正しいけど、僕たち凡人はそこまではいっていない。むしろモノの助けを借りて漸く生きていられる。これは、例えばタンパク質の接種により肉体が維持されるなどという以上の役割のことです。飯を食うということは、物理的な維持のためであることを超えて精神的な何かを補給しているんじゃないかと思います。なにかに対して煮詰まってしまう、あるいは疲労してしまう精神に対して、肉体の維持行為が、小さなリフレッシュをもたらす。読書、映画、テレビ、音楽、絵画、会話、恋人、ときどき変人、青空、山、海、・・。多かれ少なかれ躁鬱をくり返す精神に対して、いい意味での邪魔、いやインターバルが入り、それは単なる邪魔ではない意味を持つ。」
ライター:「爆笑問題の太田さんが、こんなこといっていました。年末に大風邪を引いて身体がぼろぼろになった時に、例え哲学的な思想を持っていても、そういうものを含めて精神なんてものはもろいと思いました、と」
就職浪人生:「そう。もちろん肉体の疲弊が精神を道連れにすることもある。逆の構図もあるでしょう。でも問題は、そこからの回復の方法じゃないかな。単純な肉体の疲弊は医療などの物理的な働きかけができると思います。精神が病んだときにどうやって回復するかという時に肉体、つまりモノの世界の有効性があるように思うのです。仮に坂口安吾のような強靱な精神の持ち主であれば、モノは不要なんだと思います。そう言う人は、貴方がいうように、生まれてこなくてもいい。でももしあの世があるとしたら、そこには物質はないんですよ。心だけ。ちょっと気晴らしにアイスクリームとか、ビールとか、あるいは気の合う仲間との夜行とか、温泉とか・・心を慰める外的な、そして偶発的な刺激=物質がないのですよ。夫婦ゲンカして不愉快な気分を忘れさせるレモンソーダのようなものはないんです。傷ついたり疲れた心は、なんの力も借りずに自らの心で癒さなければならないんですよ。これはむづかしい。もしかしたらこの物質に囲まれた世界に生まれて来れたということは、ありがたいことなのかもしれないと思うのです、それだけで。」
彼は恥ずかしそうに、「自分は本当は小説家を目指している」と言っていた。

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