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2008. 3. 23

第30(日)平均律と純正律

両足が建築に浸っている我が身が、腕先から引き上げられる。僅かな時間。週のど真ん中の休日の晩に、「植物文様」と題した音楽会にお誘いを受けたので、脚を運んだ。
「<植物文様>という藤枝守の作曲シリーズは、植物研究家でありメディアアーティストの銅金裕司が考案した「プラントロン」という装置との出会いから生まれた。この装置から採取された植物の葉表面の電位変化のデータに内包された音楽的価値に着目しながら、MAXによるコンピュータープログラムによって、この電位変化のデータをメロディックなパターンに読み替える」(パンフから引用)
つまり植物が発する音楽に人間が耳を傾け、それを演奏しなおした。現代音楽である。今回はピアノ(砂原悟)にオイリュトミー(藤原馨)が併せられた。オイリュトミーとは、
「ドイツの教育哲学思想家、ルドルフシュタイナーが生みだした身体運動芸術、空間芸術で、ギリシャ語に源を持つ言葉で、オイ=美しい、リュトミー=リズムの意である。オイリュトミーが表現するものには<言葉>と<音楽>があり、言葉から始まる身体の動きを基本とし、詩や物語などの言葉を発する時にノドの発声器官に生じる動きの形を全身の動きへと変容させたものである。つまり見える言葉となる。音楽オイリュトミーでは、音程、音と音のインターバル、和音等の音楽の合法則性がやはり身体の動きとなって表現される」(パンフから引用、修正)
ここまで理屈を聞いたらもう行くしかない。だが、前半ピアノのソロ、最初の2曲目で眠りこけてしまった。まるで催眠を掛けられたような、いつになく深い眠りへの誘いを振り切ってようやく眼を開いたときには既にオイリュトミストが天女のように舞い降りていた。おそらくプログラムの半分は睡魔との戦いであった。モーツアルトやシューベルトやショパンもいいが、現代音楽もいいと思った。(決して眠れたから言うのではない。)
80分の会が終わり、お誘い頂いた藤枝守氏、藤原恵洋氏と歓談している内に、あの睡魔の原因がつきとめられた。この音楽は「純正調」「純正律」といってバッハにまつわる「平均律」以前のもので、子守歌の原理を備えているらしい。
この日曜日の朝、自分を眠らせた原理、純正律と平均律のことが気になり、ウィキペディアなどを斜め読みした。簡単には、平均律は1オクターブを分割する12音程の間隔が一定であるということ。それまでの純正律は、その曲に併せて、これらの音程の間隔が操作され、互いは一定の間隔ではなかったという。つまり私たちがカラオケボックスでキーを♯へ♭へと移動(移調)しながら歌い続けられるのは平均律の賜物であって、あのマシンが純正律で調律されていたら、移調と共に曲の雰囲気が変わり、素人は歌えないというのである。さらには純正律と平均律が、古典と近代という対立と批判を歴史的にくり返してきた(マックスウェーバーやジャンジャックルソーなどもが)。最近は古典音楽が見直されている傾向にあるとも書いてあった。
いずれにしても、純正律という、言葉が悪いがあえて「音痴」な音楽が人を眠りに誘うということに驚きであった。そういうものを、人間はその時の別の都合で削除しているということにも心が留まった。

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