仕事というのは、与えられた運のようなものか。施主さんが皆いろいろである、という以上に、本業としての設計業務とは異なる仕事が、求めざるにもかかわらず、訪れる。何度もここに書いたが、母校の設計製図などは、正直想定外であった。オマケに東大との競争原理が働いていて、できることならそんな教室から逃げたいという心が確実にあった。自信のない自分をだましだまし用いた。(こういうことは終わってから言う。)思えば研究室在任時代に、ある日師から、「来月から左官教室の原稿はオマエが書くように。自由に書いていいが、評価はする。」と。実際の設計がようやく、というかボチボチ出来はじめるようになったころであった。いや、それすらままならない状態という時に、新たな難関が頭上から覆い被さった。私は子供の頃から国語という教科の克服できない人間であった。小学校に上がるまで自分の名前以外の文字を書けなかった。高校受験のために死ぬほど勉強をしたが国語は5段階の3止まりであった。生まれつきの障害であった。そんな自分が超マイナー専門誌とはいえ、印刷物になり全国に頒布され対価を貰うなどとは、想像ができなかった。案の定、毎月15日のシメキリ付近は、睡眠時間を犠牲にした。内容に関してもやはり厳しい意見の風当たりを受けながら、気が付くと10年の連載が終わっていた。その間、文章にて何かを伝えることが単なる苦ではなくなってきたころに、どこからともなく他の一般紙や専門誌からの原稿依頼が舞い込んできた。
こういう受難にも等しい、「与えられた仕事」はなんとかこなしていると、そのうちふと振り返った時に「天の思し召し」としてようやく前向きに捉えることができる場合がある。今週、TOTO出版の建築マップ九州ができたてホヤホヤの湯気を立てて送られてきた。ちょうど3年前に突然編集部に呼ばれて、複数の監修者といっしょに九州のマップをつくりませんか、とお声を掛けて貰った。だがやはりこれも、受難的な「与えられた仕事」の類であった。監修者の中で最も若年で、そしておそらくこの手の仕事のエキスパートではない。日常は本来的に本業にエネルギーを奪われる。左官教室に書き始めたころの気負いと状況の再来であった。いつになく原稿用紙と執筆の資料を携帯し、時間が出来たその場所で推敲を重ねた。そうでもせねば、関わる全ての人の名を辱めるではないかという脅迫に等しいものがあった。出来てしまったあとは、すっかり気が晴れ、得るモノを得た実感と共に「天の思し召し」だったとその受難を肯定することができる。
一難去って、また一難。4月から造形特論(全15回の講義)が今どんよりと頭上にのしかかっている。大学に本属する本物の先生ならば、たった一教科の授業の準備など些細なことだろう。自分はそうではないから、どうしても時間が掛かってしまうのである。今はまだ、これを天の思し召しとアリガタることは到底できない。
3/9 もうすぐ春です。
3/2 日中、現場にて施主さんと打合せ、夕方から翌朝の打合せのための図面を・・。