昨年の秋口に手に入れた「道元とヴィトゲンシュタイン」(春日佑芳/ペリカン社)をようやく読み終えた。ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)は我々建築を学んだものは、ストンボロー邸(ウィーン/1926)という唯一の建築作品を通して知っているだけで、本来の思想者として全容を知り得る機会を持っていなかった。寸法美、空間美にこだわり尽くしたあの住宅の作者がなぜに仏教者の道元(1200~1253)と並んで述べられるのか、大変に気になった。正直、それぞれの論文を読み口説いた論説の、更なる読み口説きとなるのは避けたいところだが、自分が受け止めたこととして、また多くの人に薦めたいと思い、書きとどめる。
ヴィトゲンシュタインが語ったのは、人間としての生をありのままに受け入れて生きることによって結果的に立ち現れる「天上よりの贈り物」=心の安らぎは「語り得ないもの」であり、それを直接求めてはいけない、ということであった。
「いま大事なのは、君が置かれている世界の中で生きることです。君が住みたいと思う世界について考え、夢を見ることではないのです・」(友人への手紙)
「万事好都合なこうあって欲しい状況を夢見てはいけない。現実の状況を受け入れ、むしろ自分の方を変えていく、ということである」(本文解説)
「彼(ヴィトゲンシュタイン)は常に自分を虚栄心から純化し、他の人々の助けとなる仕事のできる人間になることを願い、自分をまともな人間に変えていこうと努力し続けた」(本文解説)
一方、道元には正法眼蔵という世界的な名著がある。その中から「修証一等」が取り上げられる。修=修業、証=悟り、一等=同一の意、つまり修業の結果に悟りが得られるというのではなく、修業の過程の中に既に悟りという結果に値するものが在る、というもの。言い換えれば、悟りを得ようという意志の先立つ修業からは、むしろ悟りは得られぬ、という諭しでもある。もちろん今の我々にとっては、修は仕事、証は報酬?名声?評価?といくらでも置き換えることができる。私たち人間は放っておくと知らぬ間に、与えられた仕事そのものよりもその対価、もしくは未来といったものに夢うつつとなる。そういうところからは真の心のやすらぎは得られない。むしろ修という行いそのものにぐっと入り込むところに、語り得ない喜びがある。気が付くと天上からの贈り物が届くというのである。目的意識は視界の前方に出口を見いだしがちであるが、実はそれに構わず出口は後ろに開いている。
時代も場所も大きく異なる両求道者が到達した出口は、簡単なようで、難しく、でも心がけ次第によっては、というような・・少なくとも最も信頼できる出口であることだけは、直感できた。