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2008. 1. 13

第23(日)晴耕雨読

今年は、私的な日曜日から始まった。親元の木造二階建てに寄生して6年、ささやかな改築歴の中でなぜか取り残されていた寝室に手が加えられた。最初はトイレ、そしてダイニングキッチン、仕事場、籠もり部屋と目に触る内装を順番に、手当たり次第、漆喰と土を塗ってきたが、とうとう最後に残されていた寝室へ、となった。どうして寝室が取り残されていたのかは決して自覚的ではなかったが、今思うに、目をつぶれば気にならない「だろう」、と今考えると恐ろしい屁理屈がなかったわけではない。だが、そうではないだろう、と当然の理由も眠っていた。少なくとも一日の1/4以上、そこで、目はつぶっていても息はするのである。
壁を塗っていかによくなったかは、まだ硬化中でもあり言及するに値しない。強いて実験要素があるとすれば、既存のクロスを剥がさずにその上から直接漆喰材料を付けたことである。設計監理をする人様のモノには出来ない、怪しい実験である。通常は、セッコウボードに必ず下地材(石膏系)を塗り、一日存置してからの仕上げである。クロスからの改装であれば、クロスを残さず剥がしてからの、同じ工程を経る。改装で常に問題となるのは、クロスの剥がれにくいところが、後で水を含んでボードから剥離するという現象で、これを回避するために、既存のクロスを剥がさずにその上から下地を塗る、という実験は行ってきた。今回はさらなる実験、というか手間抜きである。当面はなんの異変もなく漆喰は壁に食いついているもので、もし問題があるとすれば、地震の時だろうか。
それにしても、その時間を自由に遊んでいいといわれて何をするかは、その人の道(=人生)そのものであると、つくづく思う。私自身、そんな時間は今日のように身体を動かす、具体的なモノをいじりまわす習癖がある。身体の新陳代謝が明らかに促されるのを感じ、食事も格段に美味しくなる。いつになく内燃機関が燃えるので今日のような温暖化された冬の一日には、暖房も不要。しかし、どちらかというと自己反省に近い意味でこれを書いている。本来ならば、勉強(したい)しなくてはいけない書物、知(りたい)らなければならない事実がたくさん本棚にも脳裏にもある。そういうものと日がな一日戯れることを自然に行なうことがない、ということは、真の理論家には成れない、ということでもある。
自分で自分を突き落とすという自己審判の末は、それでも明るく照らされていたい。文武の両道にバランスを得て、あるいは晴耕雨読に生き、やはり、きちんと社会に深く有用なものを探したい。一流のインテリジェントからはおそらく一生バカと言われ続ける。ならば、それには出来ない芸当を身につけたいものだ。

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