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2008. 1. 6

第22(日)消去法の営み

地下鉄車両のドアガラスに貼ってあった小さなシールに目がとまった。スガシカオ言、「20代でサラリーマンを止めて、音楽の道に進んだ。どんどん時間が過ぎていく内に、自分は天才だと思う反面、ひょっとしたらだめかもしれない、と思うようになった。でも自分にはもう音楽以外残っていなかった・・(の意)」転職情報誌かなにかの広告だった。「それ以外に残っていなかった」という表現はどこかで聞いたことあるような、成功者の慣用句のようにも受け取れたが、聞き捨てられなかった。音楽でうまくいかなかったからといって再びノコノコとサラリーマンに居戻るというのも?あるいは、やりたいことは音楽しかなかったということを確信したという?
話は飛ぶが、歴史上の数々の偉人の中で個人的に関心のある人物を挙げよといわれたら、その内の一人に鴨長明がいる。「無常」を建築とその生活者として表現した人だと捉えている。だが、ゆく河の流れは絶えずして・・の方丈記(1212?)だけなら、このタイミングでは挙がらない。「発心集」(1216前)は、仏僧ではない町人や商人などの庶民の中に発心(=仏心に目覚めること)を得たに値する人々を発見しようという随筆である。例えば、笛吹法師の話。笛を吹いてばかりいる、いや笛しか吹かない日々を送る人がいた。そんなだから生活はすこぶる貧しいが本人はお構いなし。廻りの住民は一日中笛が鳴り響いていてうるさいためか、いつのまにか隣人は一人としていなくなるが、これも一向に気にしない。高官を勤める親戚がなにか支援することがないか尋ねたところ、唯一の望みがあるという。ところが、笛の良材を作るための漢竹を九州から取り寄せて欲しい、というささやかな欲望に拍子抜けする。話はその法師が後に笛吹の名手として世に知れ渡るというので終わる。そこには、こんなような、殆ど狂人的なもの好きばかりが登場し、それらは発心の集まりとされている。この本を読んでいる間の世界は、環境問題など起こりえない、楽しげな風景として映し出されてしまう。
スガシカオと発心集の登場人物を重ねることができるとすれば、それは、(やはり)それしか残っていなかった、気付くとそれ以外なにも出来なくなっていた、もしくは、それ以外のことへの欲求がない、という状況であろう。ミュージシャンになりたいとか、笛吹になりたい、というのではなく、歌っていたかったのであり、笛を吹いていたかった、ということである。

 

 

 

2007/12/30 蒸気の中で骨を蒸す、鉄輪

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