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2025. 1. 5

第212(日)ものづくり個人のこれから<労働生産性>

しめ縄:高木尚子 / 背景:2023大気の窓<中西秀明>

人が働く労働環境の条件にかかわり、「最低賃金引き上げ」「時間外労働の短縮」という2軸が語られている。これらの働き方の改革は、各々の生活の快適性を求める当面のものに対して、日本の経済的な国力の回復、という背景の方が、喫緊であるらしい。日本は、他の先進国とは比べものにならないスピードと規模で、人口減少が進んでいて、それに伴って一人当たりGDP(国内総生産)が9位(1990)から28位(2018/購買力調整後)に低下しており、今後の人口減少とを鑑みると、GDPを回復するには、「労働生産性」を上げるしかなく、そのために、一定の労働時間の条件下での賃金引き上げが、第一課題である、ということのようである。

ちなみに、「女性の社会進出」や「少子化対策」は、矛盾しているではないかと言われつつも、堂々と社会政策化しているのは、すべて、上記の人口(この場合労働人口)減を回復して、GDP低迷に歯止めをかけるという大義を最大目的としているからこそ、と考えるとわらなくもない。これらいくつもの政策課題には、風が吹けば桶屋的な、にわかには合点のいかない因果関係が背後に控えているが、それは、その手の論者の理屈を単純に学ぶしかない。(「国運の分岐点」2019/講談社/デービッド・アトキンソン

では、日本の国全体が、労働生産性を上げる=賃金を上げるには、どのようにすべきか?上記の書籍は、賃金を上げることができない中小企業は、潰れてもらって、それを乗り越えて成長できる(会社を大きくできる)企業だけが存続していくように、変革していくことが、免れられない(文意)と書いてある。

ここに至り、心は折れ始める。設計事務所などは、極々限られた事業所以外は、すべて、中小企業の定義の中の、さらに小規模企業である。これらを整理してでも、という国家的政策を受け入れられるかどうか、25年、細々と営んできた我が事務所が、いつの間にか処刑前の囚人であったことに、ようやく気づく。「日本の生産性向上の障害となっているのは、日本企業の99.7%を占めて、これまで日本経済を支えると言われてきた357万の中小企業なのです。」「(日本は)中小企業が多すぎるということが、社会保障システムの崩壊だけではなく、日本社会に様々な暗い影を落としてしまっているのです。」いや、自分自身の設計業のみならず、これまで、少なからず事務所が設計の建築づくりにつきあってきてくださった、固有名詞で動く職人さんたちの顔が、浮かぶ。新年早々、全く明るくないイメージ。

グローバル経済の中で、日本という国家が溺れてしまわないために、の結果、中小企業はこのような立ち位置に立たされている。逆になぜ、日本がこれまで、中小を優遇する経済政策活動をしてきたか、という風土のようなものに、関心が生まれるが、なかなか、それを立て切りするような論説に、すぐに出会うことができない。

ここからは、手前味噌な意見を言うしかない。

私の事務所は、設計の趣向として、開室当初より、資本力にささえられた工業技術に対して、個人に宿る技能を組み込みながら、現代建築を作っていこうという姿勢を、これまで続けてきた。延床面積がおおよそ1000㎡を越え始めると、元請の施工会社も(会社規模として)自ずと大きくなっていき、作り方として、工場生産、であったり、汎用技術であったりの合理的な現代の工法を前提としつつ、それでも、そこに個人の技能を絡めるという、技術のデザインをしながら、建築のデザインをしてきた。と思っている。技術の使い分けをするという設計の仕方が、設計者としての個人の技能であったとも言える(言われる)かもしれない。

そこに、わかりやすいマルクス論が食い込んできた。斎藤幸平氏によるカールマルクスの資本論の読解である。19世紀のマルクスが予言的に危惧した資本主義の成れの果てが、我が建築現場にありありと映し出されていることに気づいた。建築に限ったことではないと思うが、個人が体得する技能的な格差をなくすために、技術は平準化される。それが産業革命以降の工業の主旨に相違ない中、建築行為は、言うまでもなく、常に各現場で作る必要があり、平準化の難しい生産行為の一つでもある。無数の地域と現場に争いながら平準化を求めて、建築基準法始め、JIS、ISO規格や、その他の規格、フォーマットが、各工程にまとわりつく。それらを、一つ一つクリアしながら、一つの建築が出来上がる。目的としては、品質管理の一言に収められる。一方で、作り手個人の判断は、限りなくゼロに向かって、決められたやりかたに合致するかどうか、だけが求められるようになる。

「価値のためにものを作る資本主義のもとでは、立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになる。この現象をマルクスは『物象化』と呼ぶ」「労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に『包摂』されていく。」「資本主義のもとで生産力が高まると、その過程で構想と実行が、あるいは精神的労働と肉体的労働が分断される」労働者のこのような状況を『疎外』とマルクスは言ったという。

昨年末、イチローがテレビに出ていた。元大リーガーの松井秀喜と高級そうな鉄板焼き屋で鉄板を囲み、今のメジャーリーグが面白くない、という話を交わしていた。理由は、すべて、データ管理による戦法であるから、だという。saber metricsといって、徹底した過去の対戦データの詳細をパッドに映し出し、ベンチから選手に指示を出す。個々の選手は、なにも考えなくなるではないか、そしてかならず日本の野球もそうなるだろう、と二人は嘆く。野球にさえ、『物象化』が巣食っている。

品質が担保されるプロセスとして明快であり、迷いも不安もなく、ものづくりができるようになる一方、みんな、どこかでおもしろくないな、と思っている。しかし、それをしないとお金がもらえないので、それに従うしかない。そして、いつのまにか、それさえすれば、お金がもらえる、と考えるようになる。あとは、どれだけ時間を短縮できるか、という思考パターンへ。

僕たちの事務所の建築づくりは、そういうルーティーンな建築づくりが魂レベルで受け入れられず、そんなものなら仕事にしないほうがいい、という言葉にならない反動でやってきた。そういうものづくりに同調してもらえる作り手と共感を求めて、一緒にやってきた。マルクス的に言うなら、すこしでも関わる個々人が『疎外』されないものづくりを通して、苦しみや不安90%と楽しみや悦び10%(時間比)のプロセスの結果、瑞々しい建築となり、それを施主に届けよう、とイメージしてきた。マルクスはあくまで後付けではあるが、でも、このように、非合理なものづくりにまだ未来がありそうであることを、感じさせてくれる。

前段の話とあわせみる。建築行為が国家が運営指標とするGDPに寄与するには、作り手は全員『物象化』しなければならない、ということになるだろう。労働生産性を旨として産業を改善すべき、は、国民全員が加担すべき経済立国の前提に立っているが、面白くなくて、経済だけが成り立つ、という文明国でいいのだろうか。経済が成り立った後、とりかえしのつかない退屈が社会に巣食ってしまわないのだろうか。中小企業は、もはや、整理淘汰されるべき対象かもしれないが、マルクスの危惧からすれば、生産性が低くても中小企業の何某かの類は、人間が物象化しない、疎外されないために、むしろ救済されるべき対象なのではないか。当面は労働生産性の低い事業者が淘汰されるという方向性を回避するのは、グローバル経済として考えると不可能なことはわかる。ならば同時に、現資本主義という社会フォーマットからよくよく考え直すべきだろう。その上で、労働生産性は、本来、語られるべきである。

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