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2023. 12. 24

第208(日)木育の底部

2021/11/19 事務所研修旅行 田篭地区の古民家ステイ「うきはポサーダ」に泊まった翌日、近くの「山の神」なる地点にハイク。

zoomで、「世界史の視点で見る木育・自然体験活動」というレクチャーを聴いた。お金を払うやつで、それはともかく、森林ジャーナリストの田中淳夫さん(「絶望の林業」以降、「虚構の森」「山林王」通読)ということで、あまり悩まず、申し込んだ。事務所のメンバーと、久しぶりビールでも飲みながら、ああだこうだと言いながらのつもりだった。

最初は、明らかに田中さんではない違う方が教育論的な話をされていた。このレクチャーの主催は、改めてみると「木育カレッジ」というものだから、林業的な、ましてや木造に関わる話というより、文字通り木を用いた教育論なのだと、気づいた。いや、最初から内容はそうなのだ。子供が成長する過程で、ちょうど循環呼吸器系が急成長する10~15歳ぐらいの時に、適度に加工性の良い木工を行うことが、人間としての粘り強さを育む、といった内容の教育論の類に他ならず、これは、たとえビールを飲みながらであっても、総出で視聴する建築設計事務所はウチだけだろう、ちょっと場違いだったかな、などとよぎりながら、ビールを飲み続けながら、頑張って聴き続けた。

まもなく、田中さんに話はバトンタッチされ、林業を木育的に見る、人類学的に見る、その近代史、というように纏められていて、楽しくなってきた。想像どおり、森林を楽しむ、という歴史は、やはりヨーロッパの方にある。わかりやすい一例は、ワンダーフォーゲルといった親しみのある名が、森と人間の近代史のワンシーンに位置付けられていた。日本では、森林療法なる言葉が1999年に発せられて以降、森林セラピー、セラピー基地、セラピーロードが、認定商法的に発展して、胡散臭い方向へ向かう一方、デンマーク発の「森のようちえん」に木育活動が移行しているのではないか、などという話も、建築とは直接関係がないが、世の中の構造が垣間見得るものだった。最初はニアミス感が漂っていたものの、レクチャーを聴き終えるころになると、この勉強会の重要な通奏概念がなんとなく見えてきたように思った。

木育がどうして大事かというと、林業、というか、森を大事にしなければならない、と言うまでもないことである。もし、それらを憂うべき状況である、と痛感するなら、今、森を粗雑に扱っている大人にいくら言ったってダメで、なるべく若い人間たちにある種の根本的な感性を育んでもらいたい、となる。(どうも、木育の対象は、より若年に向けられている)そのためには、まずは森と触れ合う機会が必要だが、触れ合うだけではだめで、深い理解が必要だ。(多分、言葉には出なかったが、深い理解とは「愛」とも言い換えられる?)そして多分、森というのは、自然を代表しているのであって、森に限らず、自然そのものへのより深い理解が、さらに必要だ。自然が壊れていく今、そのことを伝えていく努力を怠ってはならない。と聞こえてくるようであった。

これら木育の前提になっているのは、自然保護愛護の類だとも言える。そういう歴史的偉人たちの名もちょっと思い浮かべたりもしつつ、このようにして、常にその時代に生きている人々の活動によって灯火が消えずに受け継がれていく。それにしても、やはりこういう底部に根を張るようなイベントは、(申し訳ないが)かようにも地味である。だからこそ、影ながら応援したい。

木育カレッジ=「木育」に特化したNPOの存在の根底を垣間見る、納得のいく有料zoomレクチャーだった。

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