家内の雑事を急ぎ終えて、太宰府に走った。実際に走ったのは電車であったため、僅かながらポッカリできた思考の空洞を愉しんだ。車窓の共は「道元とヴィトゲンシュタン」。当の用件は太宰府天満宮入り口脇に控える築100年の甘味処の改築についてである。だが、私が直接的に依頼を受けた訳ではない。既にこの一年、知り合いの設計士が新築の案で取り組んだあげく、着工寸前のところで待ったかが掛かった。掛けたのはある中~古典建築の愛好家、とだけ触れておく。私は、遅れてその会合+検証会に流れ込んだという、バツわるい立場であった。そもそもそんな割り込みの状況が発生したのは、自分が僅からながらではあったが、日本の中古典建築をいじくる仕事を行っていたからというに過ぎない。この建築をいったいどうしたら構造的にも機能的にも現代に適応することができるのか、また、それを家主に伝えるコトができるのか、という議論の渦中に私は参列することになった。問題は、話の中核に。やはり主人と奥さんとの意見の相違にあった。ご主人は家が代々作り上げてきた場所であるから、これを存続していきたい。奥さんは、それはわかるが、具体的な維持は全部自分に降りかかってくるので、それに対して所定の費用の中で現代的な利便を追求したい。そういう要求に改築案は答えられるのか?、というもの。
建築学、もしくは、設計その他に関わっている人間にとっては、おそらく殆ど前者の疑問、というか意志に対しては答える準備はできている。それに対して、後者の疑問には用心深く答えなければならない。NOではないが、軽はずみなセールストークを控えるならなにも計画をしていない段階でYesとは言えない。夫婦における二項対立は、建築行為に必ず現れる。常にその中立位置に立たされる。断言できるほどの類似形をやっていれば何でもないことだが。私個人、建築行為が主婦労働の軽減を最大の目的にしている、とは思っていないこともあり、個人的には前者の意見に傾倒しがちである。しかし、この発想にも待った、がかかる。昨晩議論した、局思量=その人が見ている世界の限り、を思い出すと、奥さんの立場もまた、一つの世界である。自分の思量の限りを自覚せねばならない。
そこで思い出したのは、泰仙先生の、「ものはいずれこわれていきますからね・・」という一言。建築をなまじかじるとそういう基本的な立脚点を打ち建てることがままならず、古き良き建築を見ると=保存論となる。そういうのも局思量ということになり、普遍性がないという発想もありうる。これは、その甘味屋の主人と奥さんの二項対立を題材にした、私の思量の問題である、と思った。
2007. 7. 22