物心ついた時から、物をいじりまわすのが好きだった。どちらかと言うと、決められた通りのものをつくるよりは、それをアレンジするのが好きだった。ランボルギーニカウンタックを作れば、後輪タイヤを『グランプリの鷹』風に二列にくっつけて走らせたり、ガンプラの類は、今のとは比較にならないぐらい不自由な関節だったので、熱で曲げたり、軸をつけて可動にしたり。その原風景としては、親父が、やはり手先をつかってものをつくるのが好きで、日曜日には、NHKで囲碁の番組に食い入っているか、飛行機とか船とかを作っているかだった。彼は、昭和初期の生まれだったから、プラモデルというモノのない時代。厚紙から船とか飛行機とか、あるいは、古金物から実働するモーターを作るとか、常に原材料からの工作だったようで、そういう習癖のようなものの成れの果てを横で見ていたことになる。おそらくその結果、兎に角、人がお膳立てをしつくしたものづくりに面白みを感じにくい体質となってしまった。そしてそれが、今に至り、建築現場の周辺で迷惑をかけている?始末となっている。
私的な日常として今は、ガンプラを作らない代わりに、また、巨匠スケッチを描かない(描けない)代わりに、日用品を作ったり、修繕したりする習癖のようなものがある。もしかしたら貧乏なのではないか、もしかしたら暇なのではないか、と思われてしまう恐怖、また、製品に対して美しさを競う代物でもないこと含めて、この習癖は自慢にならないと思い込んでいていた。おそらく日曜日の記事にしたくても、してこなかった。
「分解の哲学」藤原辰史の中で、上記の自慢にならない手遊びが、実は人の営みとして基本的に大事なこととして、拾い上げられていた。冒頭で筆者の住む集合住宅の掃除のおじさんが、毎回毎回捨てられるダンボールゴミから、子供のおもちゃののようなものを作っては、子供に与えている営みに、モノの世界の真正なる循環の類が読み取られた。 筆者本人も、エアコンやなにやらの家電が壊れて、それらを何の躊躇もなく新調することに違和感を覚えて、自分で修繕をしていると告白する。壊れたら迷わず新しいものを買うというマインドセットの類を「新品世界」と名付けて、相対化する。
読書における「目からウロコ」というのはこのことである。こういう人(藤原氏)が、自著でこのような些細な習癖を哲学の源に据えることによって、私のような小人がようやく喋り始めることができる。ならば、これもあれもあるよ、と事例は幾つでも出てくる。
直近で言えば、コーヒーポットの取っ手の修繕。事務所のものがある日突然プラスチック製の取っ手が根本から割れてしまい、どうにもならなくなった。部品交換が可能かどうか、少し調べたが、やはり見当たらなかった。多分、ここだけを買い足して使うような経済原理が働かないから、その部品を売る商売が生まれないのだろう。
ならば、作ってやろう。どうやって作るか、この瞬間が一番愉しい。地下工房に転がっていた、栗の木の木片を取っ手の形に切り出して、ステンレス製の結束バンドで結ぶ。半日を費やし、材料代は結束バンド代七十円ぐらい?普通はここで、大人の時給を鑑みて、新品購入と比較したりする健全な経済観念を働かせるものだが、そこで既に違う、と考える。あくまでも、それは、現在の産業構造、社会の仕組みにもとづくパラダイムに過ぎない、と言い聞かせる。藤原氏の言う「新品世界」とは別の世界を想像する。この世界をなんと言おう?分解の哲学の意からすれば、「分解と生成の世界」なのだが。
現在の「新品世界」は、発案者や生産者、つまり、アウトプットの主体者が一定の有利性とステータスを与えられるようになっている。そのことにとらわれずに、分解者の営みを見ていこう、あるいは真似ていこう、それが、人間社会を持続させることにつながっていくのではないか、となっていく。
これまでも、エコロジー、リサイクル、アップサイクル、サスティナブル、SDGs、脱炭素と掛け声を刷新しながら、私たちは、それへの動機付けを維持していこうとしてきた。「分解の哲学」も、新しい掛け声の一つにすぎない、かもしれない。いや、むしろ少し難しい言い方だから、普通の人々にすぐはなじまない、ということもあるだろう。
だからこそ、こうやって、目から鱗の落ちた人が、咀嚼し、実行し、触れ回って、少しずつでも当たり前のことにしていく、べきと思った。そして、なんといっても、持続社会への行動規範といった目先の目標にとどまらず、あらゆる立場の人や動物や植物に対する、あるいは、自己の外側の全てに対する、愛のようなもの=より根源的な人間のあり方につながる哲学でありそうなことが、なによりである。自分が生きれなくなるから、地球のことを考えよう、というのは、一人にとっては、とても抽象的で、難しい心構えなのだ。自分が生きている間に起こることかもわからないし、本当に地球をダメにしているかも、なにか特別な体験でもしないかぎり、実感がない。それが普通の我々の感覚状態だ。
だから、分解の哲学者は、冒頭に、廃段ボールでおもちゃをつくる清掃員を持ち出したのだ。フンコロガシに偉大な役割を見出す観察者としての感性を育てるのでもいいが、一方では、自分自身がフンコロガシのように、自らの趣味趣向に従って、分解から始めるなにかの生成者になればいいではないか、と励まされているようである。