今回の日曜美術館(2021/6/27)にもやられた。御年88才の女性アーティスト、であることは置いておいて、ひたすらに作品づくりに没頭する姿勢そのものに、やられた。否、「没頭する」という月並みな言葉で言い表せるものではない。表題にあるように、命がけ=一生をかけた没頭の類い。
クローズアップされた作品は、ゴミアート。だが、本物のゴミをアレンジしてアップサイクルすると言うのとも異なっている。空き缶や、古新聞を、焼き物として模造し、それをアートとしている。粘土を焼成して新たに創り出されるものが、なぜか、完全にゴミを模している。一見するところ、理解不可能な作業。それを50年続けてきたという。
積み重なった新聞紙を模した、焼成物としての作品は、ブルーシートを掛けられて、十数年、空き地に放置されていた。いよいよ増えていくゴミ?アートの処分の必要性を自ら悟り、ゴミ回収業者に見積を依頼していた。そこにこれらの作品の常設展示を願い出る人物が現れる。
ギャラリーオーナー本人曰く、ブルーシートの中身を全部知っていたわけではないが、(三島さんは昔から人物を知っていることもあり、)なにがしかの確信があったから、引き受けようと思った。
ゴミを模したゴミ?アートが、本当にゴミになろうかという瀬戸際で、ゴミ?アートのまま、人目に触れる舞台へと登った。当の本人三島さんは、自分の作品がどのように扱われるか、ということに、恐ろしいほどの無関心、というか無頓着、だった。自ら創作した結果物に対する期待とか効果には、なんの執着もなく、作る過程が真に愉しいから、只、作ってきた。只それだけ。得てしてこれらはゴミ問題へのテーゼ、というようなことと理解され、解説されがちな作品ではあるが、ちょっと待て、私は、ゴミ問題ごときの話ではない、と思った。
以下の書籍の中から抜粋してみる。
「人間はどこから来てどこに行くのだろうか」2002 本山博氏
「個人的なものであれ、社会的なものであれ、結果としての目的が求められる時には、その結果、目的を求める自分は行為をしている時、常につきまとっている。「結果を求める自分」はなくならない。この、結果を求める自分が無くならない限り、結果を求める自分を越えた世界に入ることは出来ない。結果を求めない行為が『超作』なのである。結果や目的を定めないで行為が出来るだろうか。
何かをするからには、目的や結果を定めて、それが成就出来るように行為すればよろしい。しかし、その目的や結果が得られるように全身全霊を打ち込んで、行為そのものになりきり、行為する自分を忘れ、目的そのものになりきる時、その目的が達せられるのである。そして、達成された目的、結果に何の執着も生じない時、それは一つの『超作』の完成である。~中略~
しかも、その結果を喜んでも、それに執われない、自慢をしない、結果は神によって与えられたものと感謝することができれば、その人は常に行為を通じて行為そのものになりきり、行為の対象、目的と一つになり、対象と対立しつつ、行為をする自己を否定し、越えることが出来る。
このような、目的と一つになって自己否定をし、自己を越え、結果に執らわれない行為を『超作』という。」
わかりやすい話で例えると、活躍するスポーツ選手の「ゾーンの入る」の類いがそうなのかもしれない。また、著名な音楽家が、「楽器と一つになる」「音と一つになる」と言っている状態のことなのかもしれない。これらに、三島さんが、芸術家の場合の『超作』事例として、すっぽり当てはまったように思ったのだ。作品を作る最中には、当然、対象に対して自分の理想を描きつつも、それが、他人にどのように評価されるか、脳内のバックグラウンドで駆け巡っているはずである。例え評価基準の中に、名声や金も含まれているとしたって、人間が意欲的行動を採るのに必要な動機付けともいえる。しかし、三島さんの場合は、打算なきバイタリティーなのである。こういう人を、人は、純粋であるとか、子供のような大人、というだろう。そういう場合は、「私とは違って」とか「私にはとうてい及ばない」という意識=自分とは別の人種と区別してしまう意識が、発する側にはあるかもしれない。でも、本山博氏の『超作』の概念で、三島さんのような人間を透視するなら、その子供のような行為の「質」は、何人であっても目指すべき行為の「質」なのだと、言っているようである。
三島さんを風変わりなおばあちゃん、と理解するか、『超作』の実践者と見通すかで、番組の価値が、まるで異なってくるようだ。
だから、日曜美術館は侮れない。