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2021. 5. 2

第192(日)建築の第一寿命 その二

■生産より廃棄のことを

帝国ホテルが2030年までに完全に建て代わるというニュースに、またか、という印象を真っ先に持たせたのは、ホテルがかつてライトの名作を廃棄したからだけではない。福岡では、昨年(2020)、西日本シティー銀行(前出)の解体が着手されたり、全層吹き抜けで当時話題となった商業空間=イムズ(1989)が、今年(2021)に閉館し、来年から、より高利益の商業空間へ建て替えが始まるなど、我が市域の身近な所に、同様の建築があるからでもある。西日本シティー銀行は、建築関係者を中心に、哀しみと共に見送ったばかり。イムズは、デパートなので、これまでの利用者から「ありがとう」の声が寄せられつつ、現地へ出向けば、「なぜこれが解体されなければならないか判らない」「もったいない」などの一般の声が散見されている。

地球環境問題、持続性社会、SDGs、カーボンニュートラル、等、定期的にかけ声は刷新され、新しい問題提起のように振る舞われるが、人間と地球(自然)の共存関係の再構築という根元はなにも変わらない。それぞれの人間ができることをするしかない、という採るべき姿勢も依然変わりは無い。建築を考え続ける、作り続ける人間としては、如何にして、使える建物が廃棄されずに使われ続けるようになるか、変わらず考え続けるしかない。多くの人に感動を与える建築を構想し、作り、建築から愉しみを引き出し与えることは、少なくとも目標とすることはできる。一方で、それだけではとてつもなく遠い道のり、というより到底間に合わない、そんな冷めた視点もぬぐうことができない。もはや、建築の生産活動だけでは、この根本的な過ちを是正できない、の諦めに近い。

間に合わない、の感覚は、例えば昨今の木造と環境問題の絡みにも当てはまるように思う。以下のシュミレーションを通して見てみる。今、日本は、樹齢50~60年生の杉材を沢山伐って、建築として、炭素を固定しようとしている。伐採地を再造林すれば、若木の森が老木のそれよりも単位面積あたりで2~3倍多くCO2を吸収するから、ということになっている。下記のグラフは、国立の森林総合研究所から2010年に発表されたものだが、その当時から後の40年間、日本の杉材を、

①現状 ②現状から伐採量を半減 ③伐採量を2倍 ④伐採量2倍+再造林(80%)

の4つのシナリオで営林していった場合の、森林の炭素吸収量の推移が示されている。

(森林総合研究所 研究成果選集 H22年版より抜粋)

 

このグラフによると、2050年までの話しなら、伐採量はより少ない方が、炭素蓄積量(吸収量)が最大となっている(え?という感覚)。一方、伐採を当時より倍にして再造林される場合は、2050年以降になれば、炭素吸収量が、他のシナリオを追い抜き始める、となっている。現在、建築に多くの国産材を用いようという根拠がここにあることが判る。

このグラフを眺めているだけで、林業と建築のあり方の根本が様々に導き出せる玉手箱のようである。そして、眺めているうちに様々な疑問が生まれる。まず、このグラフの炭素蓄積量は、単純に森林に蓄積されるCO2量であるから、伐採後に燃やされる木材からの排出量は欄外である。二酸化炭素を固定するからという木造推奨にまつわる議論の中に、用いられた木材が、この世に何年燃やされずに存在しなければならないか、は不問となっている。(再造林も必須条件だが、これは林業の問題として追いやる)燃やされれば、固定されていた炭素(C)が酸素(O2)と結合し、大気中に戻ってしまう。これをカーボンニュートラルと説明している場合があるが、歯抜けの論理にアゴが外れそうになる。人間が、なにかを作る以上、行為そのものや副次材に炭素を用いてしまう。また、建てられた木造建築が焼却されるサイクルによっては、地中に固定されていた石炭石油を燃やすのと同じく、これら何れも人間の行為による、カーボンポジティブ(炭素排出超過)のはずである。炭素吸収量としての木材成長のサイクルが考慮された木材の存在年数が守れないのなら、変な話し、木は、山に植わっていたままの方がよかった、となるのではないだろうか?

少なくとも、このシュミレーションによれば、の第④シナリオに基づく量的木造建築の推進は、直近30年の二酸化炭素吸収量にはほとんど寄与しない、ことになっている。老木を若木に代替わりさせる効果は、言うほどのことではないのかもしれない。「脱炭素」というならば、伐採量を増やすことを殊更推奨するよりも先に、木造の使用年数の向上を殊更推奨(強制)する政策の方が、圧倒的な実質性を持っているのではないだろうか。

 

■エネルギー消費

ここから先は、建築設計者の範疇を逸した、勝手な妄想である。また、小学生レベルの思いつきであるかもしれない。

電気、もしくは汎用性のある高効率エネルギーの消費によって、私達は大量に物を生産廃棄できている。のであれば、その電気を、節度を持って使うしかないようにするのはどうか。環境税等はすでに密かに施行されているが、そこに「異次元の増税」というのはどうか。二酸化炭素の排出に費用が課せられるカーボンプライシングの施行が検討されているように、電気使用料に対する異次元コストを与えて、いわゆる価格インセンティブを行う。産業の既得権益が阻害される、物価高騰などの経済上の問題が立ちはだかる、など様々に絡むだろうことは目に見えているが、敢えて知らない振りをしたい。もはや非情なトレードも致し方ない状況である。個人の「良識」や「我慢力」の萌芽を待つのではなく(個人の良識が不要というつもりはない)、社会全体が個々の意思を代表して仕組みを作り、電気や化石燃料の消費を抑制する。消費税が生活必需品に対して軽減税率を設けているように、電気そのものを逆に嗜好品として、重税化する。結果、人間に取って代わり働いていたエネルギーによる労働量の類いは、再び人間自身が行わなくてはいけなくなる。当然あらゆる製造コストは今よりも高騰するだろう。また、製造に要する時間も同様に倍増する。あらゆる物が、手っ取り早く、しかも大量には出来なくなり、これまでのように簡単にモノが捨てにくくなる。つまり、人の値段(人件費)に対して相対的にモノの値段が上がる。一つ一つのモノの価値が相対的に増すことによって、「もったいない」というかつての文化の類いは、必然性を持って再得される。モノが安く沢山手に入ることによる豊かさを目指してきたが、モノがある、ことによる豊かさを再認する。人間のモノへの慈愛のようなものが、豊かさの某かであったことに気づく。後に述べる仏教経済学の語り口調でもある。建築は、目に見える大きな仕事として、個人、法人、行政の別なく、作ることも壊すことも、プロジェクトは全て、軒並み、相対的に大事業となる。社会構造から促される省エネルギーが成されれば、それに追従して、人間と自然(モノ、地球)との関係全体が改善されていく。

直近で公開された、帝国ホテルの建て替え計画は、もはや現状2棟の帝国ホテルの建て替えに留まってはいない。内幸町一丁目の街区全てに及んだ、地区のスクラップアンドビルドとなっている。だから2024~36年の12年間の計画となっている。大プロジェクトの類いに他ならないが、それが12年で出来るということは、実は異常なこと、と考えるべきだ。200年前からタイムスリップしてきたお上りさん的視点の方が、正しいと考えるべきだ。現状のお金と時間のスケール感覚を決定づけているのは、市場といった抽象的なシステムだと捉えがちであるが、そのシステムを動かしている実態は、エネルギーの存在と、その消費、である。

 

生産のスピードや量について、過去のある時代を参照することになるのだろうか。例えば、1970年代始めに、イギリスの経済学者E・F・シューマッハが節度をもった産業の質と量を地域単位で設定していく中間技術という営みのあり方が示された。節度、とか良識といった概念が、突っ走る経済をコントロールするという概念から、先述した「仏教経済学」という言葉へと結実していった。シューマッハの提唱そのものは、20世紀に入り急進する経済のあり方の批判から、エネルギー危機を唱え、結果、直後の1974年のオイルショックを予言したとして、脚光を浴びた。がその後、そのほとぼりが冷めるにつれて、節度、とか適正、とかの行動の制限や抑制を旨とする考え方は、一部の人々の間で温め続けられてきたとは思うが、メジャーな世論として多くに共有されてはいかなかった。(本国イギリスには、今でもシューマッハカレッジという小さな大学院大学がある)世の中は抑制どころか、結果、人類の化石燃料換算のエネルギー消費量は、1970年当時から今日では、倍以上になってしまった。

しかしそれではいけない、とシューマッハの考えを拾い上げる人は確実にいる。今年(2021)の年始のTV番組で、落合陽一氏が、今年読むべき本として、「スモールイズビューティフル」small is beautifull/E. F. Schumacher1973を挙げていたのだ。此奴、カッケーと思った。正月休み中の呆けた脳天に電撃が走り、慌てて忘れかけていたその一冊を探して、本棚をなめ回したが、もはや何処に行ったか判らないものになっていた。この稿を書くに当たっては、行方不明の座右の書を諦めて、ネット情報から拾うという情けない状況。そこからやはり、鋭い彼のワードを一つだけ。「どんな阿呆でも物事を複雑にすることはできるが、単純化するには天才が要る」15〜6年前に、この書を手に取り、私の中にぼんやりとあるものが汲み出される思いがした。その後、スマート=賢い、という接頭語があらゆる製品にとりつく潮流に対して某かの疑問がぬぐえず、2011年に、センシブル=良識のある/分別のある、というワードを当てつけて、文書にしたり、辻説法をした。その後、不便益(第188日)という、不便であるがゆえの利益という概念が先行していることにも気づき、それらの筋道は着実に繋がっている、と思い直した。そして改めてまた、ここ(シューマッハ)にもどることになりそうである。

 

■個人の気づきから社会の構造へ

(話し戻して)エネルギー消費量にバイアスを掛ける、ことができるのは、時間的に、個々人の意思、活動の某かでは不可能である。市場の世界は、個人の欲得を利用、あるいは増長させることで成り立っているから、環境負荷を減らそうとする時に「我慢をせずに」が欠かせないものとなる。そこに初歩的な限界がある。元々、我慢をしなかったからこうなった、ということには蓋がされ、もはやかつてのエネルギー消費水準へ後戻りは出来ない、ということが前提となった提案の構造的限界。我慢をしないための代償システムは、次なるテクノロジーに期待される。そうやって出てきた代償の最もわかりやすく最大のものは、原子力だろう。それも今は核分裂でやっているが、いずれ核融合だ、というふうになっていく。これらから学ぶべき教訓は、「他の代償を払わなくてすむためには、我慢を受け入れる」しかないこと。それを社会に敷き込むのは、繰り返しになるが、政治と行政の仕事である。研ぎ澄まされた個人は、様々な表現方法で既に世の中にそのことの啓蒙や提案を積み重ねてきたたし、今でも実行し続けている。⇨mindset2015第161(日)数的には今後も増えていくのではないか、という風を感じなくもない。しかし、いつまで、彼等にこんなに大きなコトの教育係を任せっきりにしていいのだろうか。彼等を変人視するかわりに、もう少し真面目に自分のこととして学び始めていく段階、社会基準としていくために、そろそろ、社会の仕組みとして、トップダウン的に、大胆に行わねばならない段階だと思う。

 

ライトの帝国ホテルのすばらしい再現ビデオから、とんでもない話しに飛んでしまった。先ずは、一人一人が、今の物事が進行するスピードの異常さに気づき、それはなぜか、どうしたらそれを正常な、適正なるペースへとコントロールできるか、その実行性を考えていきたい。不利益を被る方々へは、大変申し訳ないが、一旦、(個人ではなく)社会全体で電気の使用量を制限したら、どのように良くないことが起こるか?からではなく、どんないいことに繋がっていくだろうか?から考え始めるのはどうだろう。どれもこれも両立するような魔法をいつまでも追い求めるようなマインドセットそのものとも決別するべきだろう。

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