建築を通して、モノづくりに関わってきた中で、ふと気づいたことがあります。技術というのは、素材に対して共通にあるもの、という風に捉えがちですが、もう少し細分化していているということです。例えば、木の加工、というと、家の構造フレーム=軸組、そして床や壁を作るのは大工さんですが、木の建具を作るのは建具屋さんですし、木の家具を作るのは家具屋さん、と分かれていて、それぞれ微妙に、持っている道具が、その技術が異なります。同じ木を加工する職人さんたちではありますが、単純化して言えば、作るものの大きさが異なるから、木の種類から異なり(木材は、例えば同じ杉材を用いるにしても、その杢目の細かさや節の有無等、産地含めて別物)、加工の方法や工法も異なっていきます。家具や建具の職人さん達は、かつては「指物大工」と呼ばれていました。指物とは、彫り込んで、ほぞ差しする接合方法による造作物です。そのように、素材単位で、技術(職人さん)が特定されるのではなく、その素材でなにを作るかで、最終的に技術が分かれていく、というのが、あらゆる技術の到達点になっているということです。家一軒を作るのに、左官屋、基礎屋、屋根屋、サッシ屋、電気屋、水道屋・・もっと沢山の職人さん、素材の数より数倍の職人さん達が関わって出来るわけですが、にもかかわらず、それぞれの職人さんたちを十把一絡げに「大工さん」と呼ぶ一般の方が結構沢山おられます。つまりは、知るということは、どんどん、これらの差異が、判明していくということです。細分化された技術網をほどいていけば、もっと面白い世界が潜んで居るぞ、ということでもあります。
福岡市の新宮町に、ART STUDIO NAKANISHI という工場があります。鉄の彫刻家、中西秀明さんの工場です。戦後の九州を代表してきた鉄の彫刻家、父中西久吉さんから引き継がれてきた工場です。建築設計をする者が普段に見聞きする鉄といえば、構造体としての鉄です。Hとか、コラムとか言われる形鋼をざくっと切って、15~20㍉幅などで溶接して、超音波試験で構造的な欠陥がないか確認して、その後鈍紅色の錆止め塗装を塗って出荷待ち、という風景です。ですがここには、そういうスケールの鉄はありません。紅色の形鋼もありません。布膜が掛けられた物体をめくると、様々なオブジェが隠されています。木の切り株の欠損した部分に鉄の造形が象嵌されているもの、番線の結び目が堆積したもの、えぐられた鉄、編まれた鉄、叩かれた鉄、溶け出した鉄、錆び錆びた鉄・・。鉄の彫刻家ですから、建築生産システムとして、ルーティーン化された鉄骨工場の風景とは、まるで異なります。加工製品である形鋼、ではなく鉄そのもの、あたかも鉄の元素に向かって、人間が飽くなき挑戦を試みている、そういう格闘の場のようです。中西さんは、「元素との対話」と言われました。
私が中西さんに出会ったのは、独立直前の1999年の仕事に「現代っ子ミュージアム」という宮崎市にある小さな木造ギャラリーをさせてもらった時に、施主さんの自宅の玄関取手が、当にお父さんの中西久吉さんの作品だったことに因ります。建具の引き手は、普通に接している限りの殆どは既製品の世界ですが、そうでない一品生産品には、独自の存在感が宿ります。その一本から辿り、この工場に行き着いた、ということになります。そこには、そんな取り手とは比較にならない奥深く壮大な鉄の創作物の数々と、そしてそれらを作り続ける親子が、工場脇の薄暗い応接間で待ち構えていました。
美術館などに納められる彫刻作品の類いを発注するには、相応の条件が必要ですが、彼等の鉄に対する深い思いの一端を建築の一部に投げ込むことならばできそうでした。彫刻家の彼等にとっては、間違いなく肩慣らし程度の仕事にしかならないかもしれませんが、建築側にとっては、とても重要な要素になります。それほどまでに建築は、個人の技能が応用されにくい産物になっているからです。彼等の仕事のメインは言うまでも無く、彫刻制作でありますが、それでも、建築という道具的側面に彼等の鉄が参画される、ここが大事な接点かと思います。鉄は建築の中では日常的な素材ではあるものの、個人の技能はいつの間にか、生産ラインから外れてしまっているわけです。知らぬ間に接点がなくなったところを繋ぐためには、意図的でなければなりません。彼等にとっては美術館で展示するファインアート的なものからの世界から、建具の取っ手という応用芸術の領域にまで、敢えて言えば「下る作業」です。その下る作業を、独立したばかりの何物でも無い建築者が、生意気にお願いしたのでした。当にそれらを、彼等は待ち構えていたのです。
建築は、あいかわらず、生産システムとしての成熟へと向かっています。わかりやすく言うと省力化です。それがいいか悪いか、便利益、便利害の判別というよりも、省力化の一途なのであれば、そうではない建築のあり方も探求すべき、のバランス感覚は、当然の帰結です。中西さんの鉄は、建築生産における重要なオルタナティブです。省力化が必ず捨象する、「人間が作っている」部分を補う何者か。建築のどこかにあることで、建築に何かが吹き込まれる。人間が鉄という元素と対話しようとして生まれた物体が、場に生気のようなものを与える。世の中に省力化が徹底いけばいくほど、このあたりの暗黙知的な価値が、必ず反動として見直される。人間の世界ですから、そのようなバランス調整が必ず発生するのだろうと思います。