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2019. 1. 6

第185(日)金銀銅鉄

この日は、92才のご高齢の某建設業会長を連れまわす役の3時間。車の中で、なにかの雑談の表紙に、人生の出世の話しに。

「人間もやっぱり金銀銅鉄なんですよね」

「確かに私も建設業ですから、材料の話しは常日頃してますが、どういうことでしょうか」

と禅問答を返した。

「いや、けっきょく、鉄が銅、銀が金に変わっていくことはないんだよね、どんなに努力しても社長になれない人はなれない、もってうまれたものがある人は、するするする、ってなっていく。努力している人には本当に申し訳ない話しなんだけど。」

・・・そうなんですね。と切り返すしかない。今年ど真ん中フィフティーの聞き手も、従軍し戦後の闇市行商から起ち上げ、現在従業員100名前後になる建設業を興した92才の発言と背景を、そう易々と反論することはできなかった。

いろんな人間を、すぐに想像した。肉親や、事務所のスタッフや、独立していった者や、大学の学生や、友人知人、そして、我が身。他人のことは、本来的にわかりやすいものだが、我が身のことだって、そろそろ解り始めようという矢先だった。

いろいろ考えた上で、たぶん、間違いない。社会、会社を見渡す一個人の生涯を通した統計学として、そうだったのだから、たぶん、そうなのだ。鉄が磨かれて光沢を得ることはありえても、鉄が価値ある異質へステップアップすることは、ありえない。

ただ、この金言にだって、読み替えや読み解きの余地があるのではないか。語弊を怖れずに言うなら、人間の進化には上記の材料学の例えに収まらないものがあると私自身は感じる。鉄はどうあがいたって鉄でしかない、ということは冷静な科学だが、人間には精神という科学だけでは解きにくいものが備わっている。自らのなにがしかの精神を育みながら生きている。それまでがステップアップすることはない、というのなら、生まれて苦労して死んでいくプログラムの意義自体が疑わしくなる。そんな人間をなぜ作ったと神様にクレームを言いたくなる。なにより、生きていて面白くない。

何をもって、鉄が銅になるのか。ここでいう人間の進化とは少なくとも生物学的なものではなく、むしろ他の動物には持ち得ない人間独自の部分の進化、のこと。そういう根深い部分の成長が進むと、その人自身の某かの能力が発揮され、役割が与えられ、結果、人様に寄与するようになる。世間にわかりやすく顕れるより手前のこと、ここに鉄が銅になる、に比喩されるべき根源的な成長が関係している。鉄が銅になり、それが磨かれる環境が与えられる。ピカピカに磨かれた銅が、次は銀を目指す。

とはいえ、生まれて、学歴を重ねて、就職して、働いて、家族を育てて、死んで、ということの節々に、普通に目標を立てて努力して人生を全うしていっても、鉄が銅になるかというと、それはない。と某会長はこの人の世を見通したのではないか。

とあるお坊さんから、昔、「努力の仕方が大事なんです」と伺った。人間の大事な部分が成長するには、そうなんだ、と思った。そして、たぶん、ライフワーク=一生かかることなのだ。一生が終わる時に、その成長が世間に顕れるかどうか、というぐらいに、根源的なるものの進化は、ゆっくりで見えないものなのかもしれない。自分でもしているかしていないか判らない成長だから、せめて、この努力が成長に寄与しているかどうかを、常に自己診断していくしかない。

槇原敬之の曲「世界に一つだけの花」

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

がサビとして深層を奏でる。もしかしたらこれこそが、鉄が銅になる秘訣なのか。でも案外できないから、歌として身に染みて涙を流すことになる。歌詞全体が言っているように、その時の世間一般の指標、価値判断に合わせようとしてしまう。本来的な向き不向きがあるのに、適合させようとして、うまくいかなくなる。

一方で、社会の価値基準に合わせなければならないことも沢山ある。只の非常識人が花を咲かせても、他人にとっては迷惑だろう。なにを合わせて、なにを合わせなくていいと考えるか。ここの分別が、一人一人それぞれに必要なのだ。こここそが、「努力の仕方」の標的なのではないか。

本来的な向き不向きを心から自覚した上で、これは、この人生の中で越えるのはやめておこう、これはトライしよう、という分別をする。そして、乗り越えようと決めた事に対して、「一所」懸命に努力する。自分の花を咲かせる、というのは、自分の向いていることだけ、自然と手が伸びるものだけを気持ちよくしていて、達成できる、というのはむしろ希であるかもしれない。やはり、小さな不向きを伴う環境を受け入れ、取り込み、そこを越えたときに、始めて鉄は銅になる。そのことができる人にとってはたいしたことではないことも、そのことが不向きな人にとっては、とても大変なことである。不向きな人がそれを乗り越えて出来るようになった時、根源的な成長が起こる。(それが本来出来る人が、それを続けてしていても、その人自身は極論成長してはいない。)他人にとっては、気づかないような些細なことも、当人にとっては、鉄が銅にステップするほどのハードルであり、成長の機会なのだ。

鉄骨造の「鉄」は銅板葺きの「銅」になることは絶対ないが、人間の人間たる深奥では、鉄が銅に成り変わるような成長、(進化というと大げさか)将棋の駒が裏返るようなことは、起こりうると思う。否、より小さくはより起こりうる。それは得てして、華々しくない。がなんとなく、廻りの人々、関わっている人々が幸せになってくる。そのために、自分にとって苦手な跳び箱はなんであるかを自覚して、よしこれは乗り越えよう、と心に決めて努力する。努力の矛先を定める=努力の仕方を工夫する。小さくても乗り越えることができれば、実に愉しいから、次の跳び箱を探すことになる。

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