佐世保から五島列島の合間に分け入るようにフェリーが近づいた時に見上げた野崎島の偉容が未だに忘れられない。最初は五島列島の人里乏しい東端だと思っていたが、それは野崎島だった。偉容を感じた理由もなんとなく後でわかった。ここは、遣唐使船の航路に定められた古代の海道だった。野崎島の東端には、704年に当時の律令国家より創建された、沖ノ神島神社が据えられていた。そこは急峻な島の標高200mあたり、人間業を超えた神がかりの石積み=王位石の直下。その神社は海から望むことはできるが、そのまま寄りつくことは難しく、正面から裏側に舟で廻り野崎港から山伝いを歩き2.5時間の行程、現在はガイドを付けないとアプローチできないとのこと。当時の神官は毎日、往復5時間かけてこの社殿を守っていたという。
この神社と鳥居が、対岸の小値賀島の地ノ神島社の鳥居、本殿含めて一本の軸線に配置されていて、その軸線を1300年前、遣唐使船が横切っていた。海上に、聖域として構成された関門のようなもの、もしくは見えない海上曼荼羅のような地理歴史がこのスポットの雰囲気に某かを与えていたと思いたくなる。
この神社を拠り所とする島の歴史は、キリスト教禁教時代=潜伏キリシタンの時代を迎えて、少し変形する。言うまでも無く全島民は沖ノ神島の氏子であったのだが、そこに1800年代になり潜伏キリシタン数名が長崎本土から移住してきた。理由は、潜伏キリシタン弾圧からの逃避は言うまでも無く、本土の人口増大も背景にあったらしく、そこに未開地開拓事業を展開する五島藩の工作によって、野崎島を含む周辺の島々への彼らの移住が促された。これらに天草を含んだ12地域が今年の世界遺産として登録されるに至った。
当に神道アイランドであった野崎島、その閉じた小さな世界に2家族7名のキリシタンが舞い込んできたのだ。結果どうなったかというと、そのままま神道とキリスト教とが習合することになった。この日本人らしい結末が当に世界遺産として認められた価値の一つなのだろう。そしてその後、明治維新を迎え、しばらくは幕府の禁教体制が継続されるも、1865年に大浦天主堂にて「信徒発見」の契機を経て、世界中からの賞賛とバッシングを受けつつ、その体制自体が弱まっていき、ついに1873に禁教が解かれる。野崎島ではそれまでは木造の教会が用いられていたが、いよいよ公に信仰を続けることができる時代となり、島の17世帯がキビナゴ漁と倹約生活によって資金を蓄え、大工鉄川与助の設計施工により、1908年に煉瓦造の教会を完成させる。その後は、高度成長期を迎えて、島民の一斉離島が進む。
日本土着の神を祀る信仰の島は、キリストの民を迎え入れ、禁教時代を含む200余年を乗り越え、少なからずの時間を共栄してきた。しかしながら、貨幣経済+物質社会という新たな社会の構造には、抗することはままならず、2001年最後の島民であった神官が離島し、あえなく無人島となった。いうまでもなく、高度成長というものが、前社会に対して及ぼしたもののの大きさを物語っている。その事実を伝えるために残ったかのような美しい教会建築。長崎県が作成したその美しいポスターに魅了されて、私自身、この島へ渡ることになった。
建築は使われてナンボ、の大命があるが、この教会は実用を終えて、語り部としての余生を送っていた。結局、伝えられるその中身は建築のことを越えて、人間のことである。決して住むには適さない、美しくも厳しい島に移り住み、ひたすら信仰のために生きる。という人間の意思とはなんだろう?それが今の私たちにとっては最も未開である。容易に「開けない」その最大の要因は、貨幣経済+物質社会に育った思考態度なのだろうか。最も抽象的、観念的な人間の意思としての信仰と、最も具体的、概念的な人間の本能としての経済活動。こういうふうに言葉を捏ねながら旅行をする人はそうはいないかもしれないが、ここに渡る人々は皆、知らぬ間にこの大きな二項対立を跨いでいる。
小値賀島、単に立派な古民家に泊まれることが唯一の魅力なのではなかった。加速的に営まれる経済活動とその合理精神とは異なる世界が、柔らかく背景や外周にあった。移住制度が先か、人間の何かに対する免疫反応が先か、昨今の、農山漁村各地へのIUターン移住というのは、これらの背景の類いを一瞬垣間見る=観光では飽き足らず、其所に住み込むということに踏み込める感性なのだろう。
人間が動物として生存するための経済活動の概念では捕らえきれないなにか。地域主義とか、農山漁村とか、観光、移住、古民家、潜伏キリシタン、の各ワードとして分解されつつも、どれ一つの言葉にも集約されない、単に歴史と片付けるわけにもいかない、人間の本性を巡る旅、野崎島。(長崎県からPR費欲しい)