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2018. 6. 3

第180(日)春はあけぼの

夜が明ける前に起きて、ヨガ~瞑想をすると、本当に身体が清々しくなる。こんなことは極々個人的なことなので、わざわざ書き連ねる意欲など元々なかったが、しかし、最近では「自律神経の失調」が原因で、身体の不調を訴える人や、その類いの記事が頻繁になってきたので、私のこの、極々個人的な体調管理の日常が、少なからぬ人に役に立つのかもしれないと思い、筆をとる。

人生で始めて身体の内側から死ぬかもしれないと思うような体験は、ちょうど10年前のこのぐらいの春だった。(5/28日)本当に死ぬかもと思ったからか、自ら救急車を呼び、周りを騒がせてしまった。細かいことは省くが、診断結果は心因性期外収縮。ストレスからくる、一時的な不整脈。狭心症に繋がる深刻な不整脈ではなかった。病院から与えられたサンリズムという薬や、精神安定剤を服用し、携帯し、それをお守りにしながら仕事を続ける一方、鍼灸院や、マッサージ、オステオパシーという整体術も併用した。20代前半から、いわゆるストレス社会に身を投じて以来、身体を崩さずにこれたが、39才を節目に自律神経失調という持病を携帯することになった。そういえば、大学受験の時にそのための体調管理を目論み、父親からかじったヨガがあった。これをまたやろう、と思い立った。とはいえ、一週間に一回座ればいい方で、毎日の習慣になるには10年近く、足踏みした。ヨガの指導者には幸い恵まれていて、IARPという東京の本部から年4回、講師をお迎えして、会員の方々と共に講習を受ける。そのご縁を父が築いていたおかげで、ヨガの目的や全貌を理解する情報に事欠くこと無く、そしてヨガ教室を転々とするような段階を経る必要がなかった。問題は実行するかどうか、習慣化するかどうか、だけだった。

ヨガの本当の目的は、密教の類いの世界に入るので避けるが、その前に、身体が内側から整ってくるというのがある。逆に言えば、身体という物理的な存在が整わずに、自らに潜む密教的次元にアプローチすることはできないから、だから、アーサナや呼吸法を行い、身体を整えるプロセスを伴う。昨今の、多くの教室はこの、身体を整えるプロセスを最終目的にしている。それはそれでと思うが、そこを最終地点にすると、その手前までしか到達できない、ということになりがちである。人間というのはそういうものだ。(だから「志し」の高さが大事になってくる・・なんとも耳がいたい。)つまり、ヨガによって得られる健康の最大値は、それよりうんと高い目標を持って実行をしている人が、プロセスとして獲得されるものなのではないか、と最近は思う。

ようやく「あけぼの」から「朝ぼらけ」になってきた。今の気分を理屈っぽく書くと上記のようになってしまった。温泉にゆっくりつかって、美味しい料理を食べるとか、山に登って頂上でビールを飲むとか、美しい建築や絵を見て感動するとか、偉人伝を見聞きしてよし俺もと元気が湧くとか、私たちにはいろいろな元気の取り戻し方があるように思うが、そういうのは、お金や時間のことを含めて毎日できるものではない。そして、そういう類いの元気と、アーサナ~呼吸法~瞑想をあけぼのを迎える時間帯(今なら4時起き、冬なら6時起き)で1時間以上をかけて行った後の身体の感覚とは、言葉では本当に表すことができない違いがある。身体の外側からの、いわば物理的アプローチではない、身体なのか心なのか解らないけれども奥底からの元気というか、清々しさがある。

そして、残念ながら永続はしない。だから、「毎日10分でもいいからしなさい」の指導が響いてくる。言われるがまま毎朝するようになってから、気がつくと、不眠、倦怠感などのなんともいえない不快感=自律神経系の不具合が解消していた。毎日というのがやはり健康法としても確実なものにするのだろう。

若いうちは、若さゆえに良い仕事をしていくための身体の条件は備わっていた。でも、もうすぐ50代。他人に幸せを振り蒔くような仕事をするためには、自分の身体を画策してメンテナンス、というかより良い状態にしていく必要を感じる。案外、近しい人に伝えたくて書いたが、たぶん、歳をとれば誰にでも共通した命題なのだろう。

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