« 日曜私観トップへ戻る

2017. 7. 30

第173(日)世界遺産、宗像

 

宗像大社に関わる大きくは4カ所が世界遺産へ登録されることとなった。個人的には、時折参拝していた高宮斎場のある辺津宮が、当初勧告から除外されていたことに、殆ど憤りに近いものを感じていたから、ようやく想定内の審査結果に胸をなで下ろすことができた。駆け引きじみた不可解なプロセスは、富士山+関連遺産群の登録の際にもあったようで、いろいろと思うところがあるが、それらはもう奥底に絞まっておいて、問題の設定をこれ以降のことに向けてみたい。

原則的に神職以外の上陸を禁じる沖津宮=沖の島は当初より登録勧告を受けていただけあって、今回の遺産群の中で、観光の目玉と扱われている。遺産登録を観光事業に結びつけようという当然のなりゆきも、この目玉である島そのものが禁足地という崇高な価値が足かせとなって、二の足を踏んでいるようだ。

実際に足を踏み入れ、実見できるということが観光地の常識として揺るぎないならば、たしかに観光客へのアピールが難しくなる。しかし、禁足地としての聖地が1000年以上存続してきたことが遺産登録によって太鼓判を押された以上、そこは徹底して肯定するしかない。もはや観光の常識に縛られずに、観光客としても、また彼らを迎える地元側としても根本的に異なる思考態度が必要だろう。

一観光者として、私自身、仮に沖の島に上陸できなければ宗像に魅力が持てないかいうと、ほとんどそういう感覚を覚えない。禊ぎを受けた神職以外、立ち入ることができない聖域が、仮に公開される日があったとして、およそ信仰とは無関係の様々な態度の人々が大挙すれば、実質的にその日は禁足地としての聖域ではなくなるのではないだろうか。「観測対象は観測方法によって変化する」これと関連しそうな体験を思い出す。三輪山(大神神社)を参拝した時だ。奈良県の大神神社のご神体そのものである三輪山に、ルールに従って禊ぎを行い、1時間弱の山道を登った。頂上は古代祭祀場ということで確かに好奇心をもって臨んだ。ところが、正直なところ、期待していたような特別な感覚は起こらなかった。奥津磐座群という、文字通り神が降臨する岩=磐座がゴロゴロとあって、いわば(駄シャレ)自然の風景のままで、しめ縄だけが人為的なものとしてある風景。当時は、偏に観察者としての自己の感性の鈍さを恥じた。その後、沖縄の斎場御嶽、熊本の拝ケ石巨石群など、機会をみつけて原始的な祭祀場の類いを伺うが、同様の感覚が漂う。伊勢や宗像斎場のような、掃き清められた、凜とした空間と同じではない。もしかしたら、既に人々の信仰の途絶えた場所には、聖域の某かは失われているのだろうか。あるいは、祭祀というカタチを通して始めて聖域としての力が備わるのだろうか?聖域は聖域であるほどにデリケートであり、観察者のありようによって変化する=観測者効果を危惧しなければならないのではないか?

 

沖の島は残念ながら参拝したことがないから、体験を話すことができない。だが、体験をしなければ語れぬ、の類いとは根本的に次元が異なるのかもしれない。(実際は体験しても語ってはいけない、となっている。)観測対象を変質させない=干渉しないポイントから望む、つまり少し距離を置いたところから想像するのが、沖ノ島の場合は良い鑑賞方法なのではないか。この地に干渉せずに鑑賞する(駄シャレ)ポイントとして、そのために大島がある。当に沖津宮を遙拝するための中津宮である。空気が澄んだ日であれば、中津宮から沖の島が見えるという。そして辺津宮には、高宮斎場がある。ここは宗像三女神が最初に降臨した場所といういわれがある。神代には、このように白沙の敷かれた何もない神籬(ヒモロギ)の空間が社殿の代わりを果たしていた。斉庭(ゆにわ)とか沙庭(さにわ)と日本書紀、古事記にあるらしい。神道が仏教の影響を受けて社殿を建てる習慣が定着していく段階で、この斉庭の類いは、おそらく原型を変えていったのだろう。宗像は、この高台の斉庭をそのまま残して、後世の社殿は麓に建てて、両者が併存してきた希少な例だ。

 

 

 

陸にあるこの古代祭祀場の空白地と、はるか海上の禁足地沖の島の空白が、なんとなく頭の中で繋がらないだろうか。神の降臨するその場に対して、人間は自らの構築意欲とは逆方向に、限りなく小さく振る舞いながら、神とつながろうとする。あるいは神をおもてなしする。その古代的姿勢が、沖の島に渡らずとも、この万人に公開された辺津宮にて伺うことができるのである。山登りに例えるなら、ピークとベースキャンプの関係。普通の人はベースキャンプから頂きを眺めるだけで、十分に特別な時空であり、幸せなはずであり、また彼らのベースキャンプの営み自体が、ピークに挑む人の大きな支えとなっている。

沖津宮は、4世紀後半に、大陸との交流が盛んになっていくころに、航海の安全と外交の祈願として祭祀が始まったとされる。陸地からすれば、朝鮮半島を睨むスコープであり、突端であった。まずは海上の神坐から始まり、7世紀後半になると、大島〜九州本土へと祭祀空間が上陸する。この時系列が、沖の島が主であり、その他が「関連遺産群」として従う構図をつくりだしたのかもしれない。だが、21世紀の私たちからして、4世紀と7世紀を歴史の重要度で差別することはできない。一応宗像三女神は、共に姉妹である。あわや妹達が登録から外されようとした事態だったが、これは実の親兄弟を他人が引き離していく行為に等しい。歴史的のみならず、信仰の骨格としてもこれら三女神は、主従の別はなく、並立するセットの類いであろう。

観光化としては、この宗教装置の配置と役割、上述の構図を、そのまま観光客に味わってもらう、が最良だろう。「ふるさとは遠くにありて思うもの」的に、まずは、高宮斎場にて、建築を媒介しない神域=斉庭の実在を知ってもらい、その体験と並行して、大島〜沖の島を愉しく想像してもらう。どうしても姿を拝みたい時には中津宮の大島を訪ねれば、薄もやの姿は拝めるかもしれない。いずれにしても、これら想像心を豊かにするためには、某かの予備知識が必要だと思われる。宗像のことだけでなく、大陸とも関わる神道そのものの始源や、宗像と同類の事例、先の奈良の三輪山や、沖縄の斎場御嶽、あるいは、済州島の堂についてなど、社殿のない神域の事例とそれらの隠れた歴史を知るために、なんらかの仕掛けは用意した方がいいだろう。そういう知識と他での類似経験があれば、沖の島に上陸しなければ来た甲斐がないという初歩的な好奇心にさいなまれずに、想像力に裏打ちされた自由な意識でもって、聖域を感じることができるのではないだろうか。宗教空間としての陸海をまたぐ壮大な構図と鑑賞方法の構図が一致する、オリジナリティーある観光地になるのではないだろうか。

« »