秋の気配が近づいているある日、街角で、真っ赤な街路樹に出くわした。自然物とは思えないぐらいに、美しく均一に赤。時々に通りすぎるいつもの場所にこんな樹があったのだろうかという、発見をする。
信号待ちの間、ハタと考える。この樹が美しく秋を振る舞えば振る舞うほど、周りの人工物との風景のギャップが露わになる。人間側から見たら、都市の風景を美しく彩る「一本の街路樹」。が、もし、この「一本の樹」からみたら、どうだろう。樹本人?からすれば、自分がこんなに美しく魅せていても自分の居場所のまちはまるで関係のないそぶりをしている、そんな思いだろうか。とにかく置かれた環境がどうであろうとも、樹は無為に働く。
例えばアメリカの生態学者アルドレオポルドはおそらくそういう感覚を大事にしていた人なのだろう。「山の身になって考える/1944」や、「野生のうたが聞こえる/1949」といった著作は、その表題だけからも、自然を対象化せずに、人間が人間の向こう側の立場に出向いてものごとを考えるというマインドセットが据えられている。もちろん、そのような思想やメッセージがいかにどこかで賞賛されても、社会の大きな枠組みや、個々人の行動は、簡単にそうははなれない。人間の方からすれば、自分たちを中心に考えて生きるしかなく、やはり自然から一方的に恩恵を被るばかりである。
物言わぬ自然を本当に同格に置いてつきあうことは、相手が物言わぬからこそ、とても難しい。文学としてひたすら発信されることはあっても、工学として即座に取り入れられることにはならないし、ましてや経済の仕組みが、そのような主観に従うという理はない。それぞれは、そういうところで、うまい具合に完全に土俵を違えている。
「一本の街路樹」はだから、自らがふさわしいとする背景を持ち得ない。いろいろなことが言われながら、形になりながらも、実は都市を形作る主人ではない。言い方は悪いが、アクセントとして扱われる。経済的な側面としてはもちろん、都市計画としての工学的探求も、基本的に自然は、伺う対象ではなく、用いる対象である。
それでも、青空や雲が生き生きとするビル街、落ち葉が似合う街路、など、学生やアイデアコンペのかけ声としてありそうではある。そこからマインドセットを立て直す糸口としては、必ずやよい機会であるかもしれない。営みとして、地理として、特区の枠内にとどまらず、「共生」のデモンストレーションから、社会のスタンダードとなっていく道筋がとにかく必要だ。
私の住む町の街角に、貴方の住む街角に、なんでもないところに、自然との対等な共生が露呈されている時に、人間としての大きな進展や感動があるのではないだろうか。物言わぬ自然の声を聴こうとする感覚は、おとぎ話として葬って済む時代ではないように思う。