cobaさんのお話を聞いて、改めて、こういう生き方のようなものの、未来を感じずにはおれなくなった。世間では気がつくと「断捨離」、とか「ミニマリスト」という言葉がそれなりに浸透していて、余計なモノを捨てる、とか、持たないという主義の生き方が、一つのスタイルとして確立しつつある。だから、ちょっと時代的な考え方ではあるのだ。しかし、この手の話は、たとえばダイエットの延長から起こる拒食症や、逆にリバウンドというように、なんとなくやせ我慢から起こる脆さを含んではいないだろうかと勘ぐってしまう。節電というスローガンも、ほとぼりが冷めると、我慢が跳ね返って元の習慣に戻ってしまいそうである。例えばもし、ミニマリスト、なんていう言葉の拡がりを、その良識が一定の支持を得ようとしている契機と考えるならば、個人の趣味とかライフスタイルといったくくりに終わることなく、脆さを補い柔らかさのようなものを備えていって、社会全体の好転につなげていきたいところである。
テレビや雑誌や、もしくは画像検索で出てくる、それらの人々やイメージの個々は、事実を知らないのでなんともいえないが、何度かお会いしたcobaさんについては、その手の方々にありがちな堅くて脆い剛直な思いとは無縁な、柔らかい雰囲気を持っていた。彼女だって数年前までは、普通に車に乗り、家電を用いて、家事の短縮をもくろみ、生活を高回転で回すことをやってきた。ある時、疑問をもって、モノを捨ててみようと、そこから始まった。ある意味冷静な、実験的な姿勢から始められた。そしてその実験の連続によって自らの生活を省みてきたから、自分の奥底にあるものに尋ねながら、生活をシェイプアップしてきた。なんだか自然である。
こういう人々が、もはや特別であったり、変人だと、と周りが受け取ること自体、もう古いのかもしれない。各地に点々と、しみじみと、人目に触れることなく、自然にそういう営みを続けている人も、思いの外多いのかもしれない。
一方で、相変わらず、これまでとなんら変わらぬマインドセットの営みの方が、やはり主であるようにみえる。最近も、全自動折り畳み機なるスーパー家電の話がニュースが賑わせていたが、これなど、まさにそうだ。すでに普及している全自動洗濯機は洗濯から乾燥までを自動で行ってくれるが、そこから先の「折りたたみ」については、まだ人の手を煩わせているではないかと。ならば、自動で折りたたむ機械ができた暁には、主婦は生涯で約1年分の労働時間を短縮できる、という皮算用付きであった。
このあたりが、本当は、というか本来的に微妙なのだろう。人の手でやっていたことがある日を境に機械がやってくれるようになる。当面の手間が省けるのは間違いないが、その機械を得るためになにがしかの費用が必要になる。電気もそれなりに必要になる。高価な機械がそれ一つであるなら問題はないが、そういうものの集積で現代生活が営まれるとなると、費用の重なりは馬鹿にならない。当然、機械は壊れ、修繕や更新を余儀なくされる。家事を楽にする機械を整えるために、より多くの現金収入のため夫はより働く必要が生まれる。子供は家事の手伝いは不要となり、家のことを手伝うことなく、遊びや学業、趣味に走ることが出来て・・というより、親の様子から察して将来多くの収入を得なければと子供は早くから課外授業に脚を運ぶ。結局、母親は、一人で家事をこなすので案外忙しく、いったい誰が楽をしているのだろう、ということになる。
私が営む設計事務所も思い当たる節がある。たとえば、CAD(Conputar Aided Design)=パソコンによる製図が常識の今、 かつて手書きであった時代より、遙かに図面を修正していく時間は短縮できるようになった。しかし、パソコンのイニシャル+ランニングコストというのが、確実に固定費を底上げしているような気がするし、なによりも、依頼者側の意識として「図面はすぐ修正できるもの」という感じで、修正作業そのものが比例して増えているような気がするのだ。つまりは、楽にはなっていないかもしれない、という感覚。
携帯電話はすべての人に関わることと思うが、これによって優雅な生活を送れているかというと、大見栄切って言えないだろう。誰にも邪魔されずに爽快感を味わうためのトイレの中にまで相手がコールしてきた日には、爽快感どころか、電話先の相手に、ここがトイレであることがばれないような馬鹿げた気遣いに疲れることになる。
お金を介して、全ての人間が高回転で働かなくてはならない、大きな仕組み、仕掛け。特記すべきは、一つ一つの局所的な場面では、人間が楽になるためのものとして物事が生じている。ところが、局所を楽にはしたが、つもりつもって社会全体としては一人一人をまるでハムスターホイル(第149-151(日))の中に閉じ込めてしまっていることだ。人間の世界のハムスターホイルは、(グローバルであればあるほど)とてつもなく大きなホイールの中で、一匹ではなく、大勢で走っていて、もはや一人のペースでは止めることができない、そういうイメージに近いだろう。
その流れを生み出しているのは、やはり、人間一人一人に潜在している、欲と競争意識だろう。欲や競争意識こそが、人間を向上させ、他者、社会を豊かにしてきたのも事実。そして、競争意識の強い人間による力強い人生は確かに端から見ていても美しいし、頼もしい。しかし、同時に極限られた勝者よりも圧倒的多数である勝者以外(必ずしも敗者ではない、私も含めて?)の、報われない心身の疲弊を考えるべきだろう。一握りの勝者を中心とした社会の資本構造が高度資本主義社会の宿命であることは、既に周知の事実だ。(たとえば資産という意味で、世界の富の半分は世界の人々の1%の富裕層で所有されている)このような構造的な宿命があるならなおさら、この現代社会の哀しみをこそなんとかすべきと取り組むべきだろう。
考えていくポイントの一つは、「現代は電化社会である」ということ。電気を生み出すためのエネルギーの生産、流通に始まり、電気を生み出す事業、そして電気を使って動く機械の生産、流通とが、産業構造の大きな部分を占める。その構造の、あくまでも枠内に、私たち一人一人の生活がある。その枠組みに温存されているととらえるか、封じ込められているととらえるか。どちらにせよ、この産業構造の枠外で自由に生きることが、知らぬ間にできないようになっている。「知らぬ間にできなくなっている」というのがなにより不味かろう。そういう感覚があるかないかが、新しい世の中へ向かう二叉路となるだろう。