信じることと、疑うことの、ニサ路。時折考え込んでいたことを今、記そうと思いたった。
例えば、家を設計するにも、既存のものを扱うにも、時に立ちはだかる防犯の話。泥ボーに入られた人も、そうでなくとも、どこまで防犯に意識を傾けるかという程度には、当然個人差がある。私個人の経験でいえば、我が住処の庭に得体のしれない輩が忍び足で侵入してきた日の直後は、防犯グッズやら、縦格子やらの購入、造作に溺れた。その後、その記憶が薄れるに従って、防犯意識と行動は共に薄れていった。(泥ボーさんよ、聞かなかったことに。)泥ボーが入ってくるかもしれない、という「疑い」は、少なくとも金銭を費やし、なにがしかの不便、それなりの不便を伴う。防犯性能を強化すればするほど、つまり疑いを大きくすればするほど、代償は大きくなる。
自動車や、家、もしくは人間に掛ける保険の類は明快で、「疑い」を深めれば深めるほど、先行投資の費用は増えるしかない。もちろん、疑っていた通りのことが起これば、「疑い」の意識と労力は、おつりを伴って報われるが、何事もなければ、それらは、代償として、失う。
アメリカなどでの建設現場では、設計者と施工者の双方を監督する、コンストラクションマネージャーなる立場の介在がある。とかくありがちな、工期遅延と予算超過を防ぐために、設計者と施工者の間に立って両者を監督する立場を発注者が依頼する。目的は正しいが、そのように疑いを深めるがゆえの、複雑機構というか、その三者はうまく均衡を保てるのだろうか、発注者の負担も増えるのでは、などの想像をしてしまう。要は、設計者が工期と予算の制御をきちんとできれば、こんな、立場は不要なはずなのではないか、コンストラクションマネージャーの出来が悪ければ、それをまた監督するコンストラクションマネージャーが必要になってくるのではないか、と、まあ止めどないシステム論のようにも思える。
建築家と呼ばれる人々の仕事はやはり、疑われては、ひとたまりもない仕事であると、深々と思う。泥ボーと同列になるが、依頼者からの疑いが一定以上あると、良質な建築を作るどころか、その創造のための敷地に近寄ることすらできない。だから、疑いが生まれぬよう、日々精進していくしかない。
逆に言えば、依頼者からある一定の信頼を得られる段階になると、これほどに愉しいものはない。そこには創造の連鎖が起こる。愉しいのはもちろん設計者だけではなく、依頼者も必ず同じ輪の中にいて、施工者も途中はきついだろうが結果的には、喜びを覚える。
互いに「信じる」という、説法くさいようにも思えるシステム論こそが、よい建築を生む必勝パターンだと言い切れる。日本はしばらくは、というか再び、これでいい。よくいう、私たちの職業の入り口に掲げてある「自己実現」なる危うい言葉の本体は、ここにあり、といえるかもしれない。