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2015. 3. 15

第155(日)貨幣経済の退屈-1

チョコレートはもらったら返さなくてはならない、ということにいつの間にか世の中がなっている。昨日は例のホワイトデイ。返礼などカミサンに必要だろうかとおもいつつ 、つまらぬことで言いがかりが付いてはいけないと、律儀に何かを返そうと思うが、そこらの何か、羞恥心を凌いでホワイトチョコなどの定型を買って与えてもモノだけが行き交いして、なにも取引にならなように思い、ならばいっそのことクッキーなぞを焼こうと思い立った。「白い日」に贈るべきものであるかどうか知らぬが、そこをいろいろと裏を取って生きるような分際でもない。

クッキーとかケーキづくりとか、実は子供の頃、父親の日曜日の過ごし方の一つであったから、まったくの新規事業ではない。父は日曜日、飛行機とか、車とか、船とかの動く模型を作ってみせたその延長で、なぜかお菓子作りも楽しんだ。子供の時分も自ずからその中にいた。といっても、手順や分量を覚えているはずもなく、結局は贈る先の手ほどきを受けながら、作ることになった。彼女の監理の元での厨房入り=自己完結できていないところが、結局は災いのもとになる。自分の手際の悪さ、端折り方を横からご丁寧に指導いただくも、そこは職人気質対、職人気質の対決となり、口論の火種にななりかかる。家族の円満のために画策したはずの催しが、もろくも目も当てられぬ事態となる。

1時間強かけて、いよいよオーブンに投入。ようやく気を取り直す。なによりもこういうのは、焼き上がりの楽しみがある。粉状態で約300グラムぐらいの原料、手作りクッキーとして買えば500円くらいになるのだろうか。時給換算などしてみると、手作りというのは、こんな調子だと商売として法外な値段となってしまい、成立しないことに気づく。

様々な形の型抜きで、造形を楽しむ。型を抜いたネガ=ハンパを集めて、今度は自由造形を楽しむ。飛行機、象さん、ペンギン、象さんのネガから偶然にできた豚さん、言葉にできないあの形、これを童心といわずしてなんという。。自由奔放なクッキーの型の集合体、商品として売ろうとすると、やはり歩留まりが悪く、さぞやりにくかろう、などと想像してみたりする。

味はどうだっていい、というと嘘になるが、正直いうと、焼き加減が案外難しいなとか、もうちょっと砂糖やバターを少なくしてみてはどうかなどと、次の課題しか思い浮かばない。

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