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2014. 8. 31

第151(日)ハムスターホイールライフ2(HWL-2)

ロースが言うとおりならば、装飾は視覚的、あるいは文化論的に不要となるばかりでなく、生産行為として、新しい産業構造として無駄であり、その無駄を廃することによって、人々はそれまでより楽な暮らしができるはずであった。しかしながらロースの時代に、以降、自由市場経済がこれほどの革新的な工業技術、情報技術の進展の動力源になり続けるなど、想像できなかったかと思われる。それまでに人々の生活に必要であったものの種が、そのまま増えずに、一つ一つが安くなっていけば、人々は楽になるはずであった。100年後の私達は、この重大な予言が事実ではなかったと、答え合わせのできる立ち位置に生きている。人々の日々が「楽」になるどころか、ますますつらく厳しいものになっていくのは、与えられる労働単価(時給)、つまり収入減ばかりが上げ連ねられるが、それ以上に生活に最低限必要な経費の増大に因っているのではないだろうか。私たちの日常を暗黙の内に追い立てるのは、必要経費総計の微増なのだ。

炊飯器、携帯電話、デジカメ、パソコンに至り、一つ一つは確かに手が届かないほどの高価なものではない。高性能化の一途であることを考えると、むしろ安いともいえる。しかし、問題は、そういうものが生活必需品化し、そして加えて、短期消耗品化していることにある。100年前には必要がなかったが、今の私たちには欠かせないモノの類が異常に増えて、そして、買いそろえても、買いそろえても、それらの更新がまた迫ってくる。つまりは、必要経費は確実に増える一途だから、その雰囲気がマインドセットされて、自ずから働く時間は、増えていく。これらハムスターホイール化する社会構造は、一億総勤勉の私たち日本人にとっては自らの勤勉欲とうまい具合にドライブしてしまい、そこに本格的な疑いが芽生えず、制御装置も働かない。

鬱病、自殺などに現れる私たちの何らかのオーバーヒートは、原因を一つに決め込むことのできない代わりに、大きすぎて見えないハムスターホイール(HW)の存在を懸念する自由はあってもいいはずである。便利なもの、機能的なもの、美しいもの、全ては仮に、高き志と尊い才能、そして努力により生まれたものだとしても、そのエスカレートが創り出す社会構造を少し離れて見ることのできる展望台が、どこかに必要ではないだろうか。日常的に上るところではないが、時々に上がって、普段自分たちが生きるその世界を見つめる。ちなみにその展望台は、心理状態の例えとして架空のモノと考えてもいいかもしれないが、もしかしたら、ほんとうにあってもいいかもしれない。HWの外にある、現実の場所、建築、空間は、いったいどのようなものだろう。

(続く)

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