生まれて初めて、茶会に誘っていただく幸運を得た。こういう機会は突然にやってくるから、やはり、用意は事前にしておかねばならないのだが、時既に遅し、見せるカタチも隠す技も品もなく、只只身を差し出す。
尤も、後で解ったことだが、この茶会はカチカチのものではなく、主人自ら意図的に不手際を演じ、その道を心得ぬ客であっても暖かく受け入れてくれたのであった。( 九死に一生を得た。)そして、この庵のかつての主人が、この庵を創始し、この粥茶会なるものを創始したことを、知った。
鶴田忠義という人のことが、少し気になった。大学の大先輩にあたる人が、仕事を引退して、有るとき、この庵を構えて、自由な茶を営み始めた。聞くと、茶の道はほどほどに始められたという。それが逆によかったのだと思うし、それが本来の数寄茶のあり方なのだろうとも思った。京都から数寄屋大工を連れてきたりせずに、まったくの未経験の大工を雇い、いっしょになって見よう見まねで創作したということと、柱、天井板のことごとくが、節だらけの、どちらかというと粗悪とされる材を用いてあることとも結びついた。このあたりもまた、単なるお金持ちの道楽と似て非なり、やはり本来の数寄に立ち返ろうと(お金は用いず)教養を用いた形跡を感じ、あるいは、定型(伝統のカタチ)との連続のしかた、崩し方として、絶妙な立ち位置のようにも思えた。
「まずは一献」の茶会は、先付、向付から始まり、粥が添えられた。釜は、茶飯釜といって、二重蓋により、最初は木蓋が載せられ、様々な様相の粥を楽しみ、その後は、一掃された同じ釜に鉄蓋が仕組まれ、湯を沸かし、濃茶、薄茶と進む。
本来のお酒の肴の数々も(書き出すときりが無いほど)秀逸ながら、粥と酒の関係も大変良い。固めの粥からモチモチへの無段階変速しながらオカワリを繰り返しがてら、おちょこも畳と口元を忙しく往復する。鉄釜だからか、ご飯の味が、とにかく普段とは別格である。以前から、どうしてあちらの国ではパンでワインがいただけるのに、こちらの国では、ご飯で酒とはならないものか不思議であったが、「なる」という結論に、素直に胸を撫で下ろす。昼の12時から始まる茶会、というか裏を返せば宴会は、お粥をオカワリしている内に、お酒の量にリミッターが働き、これもまた、無秩序を増大する危険な場に品位を与えてくれる。
それにしても、この茶室は暗い。私が今まで見てきた茶室の中で、最も暗いと感じた。(そんなに沢山見てきたわけではないが、もしかしたら、実際に箸を運ぶという状況だったから、光量の不足をより感じやすかったのだろうか。)建築の設計者は、様々な先例を実際に見て聞いて、未来の仕事を待ち構える職業とも言えるが、「見た」「居た」ということで、なんとなく、「経験済み」ということにしてしまう、癖がある。そのかたわら、実際には、そのビルディングタイプ(建物の機能、種別)に従って、体験をすることは、容易ではないという考え方もある。私達がよく知っているはずの茶室はその好例で、実際にそこで、茶を頂き、あるいは、懐石を頂いて、というのはそうできることではない。また、能舞台の観客になることはできても、檜舞台で演じることなど容易でない。美術館だったら、ホールだったら、聴観者になれても、作者奏者になるのは簡単ではない。住宅に至っては、自らは生活者であり、その熟知者であると豪語するも、指さしたその住宅に、寝泊まりする特権を持っているわけではない。設計者は、なり得ぬ立場に成り代わって空間を作る、代人であり、役者である。(しかない。)役者には、役作りという仕込みがあるが、設計者には、はて、役作りに値するプロセスはあるのだろうかと、はたと考えてしまう。せめてもの、僅かな機会を大事にするしかなく、代人として器を空っぽにして磨いておく、というようなことでしか術がない。
話は戻って、この茶室は「雪折庵」というらしく、福岡と佐賀を結ぶ石釜(茶釜とはおそらく関係がない?)という里山エリアに潜している。庵を創った亭主が他界され、この粥茶のスタイルを知る限られた方々が、頼まれた時に、「在釜」の提灯をもって庵を開きに出向く。そうやって真に侘び寂びていく庵は、辛うじて存続している。