2週間のオープンデスク(一時的な採用状態)生が、昨日大学のある町へと戻っていった。4年生になったということで、これから就職するにあたって、組織設計事務所か、アトリエ系かの二者択一に迫られていた。彼女の就学は、学費の全額を奨学金に頼っていた。組織事務所に求めるものは、どうやら報酬らしく、言うまでも無く奨学金返済が背景にあった。
お金のことを抜きにして、本当に行きたいのはどちらか?で決めるべきだという正論は、正論としていつでも何処でも側にある。本当に行きたいのはどちらかを確かめるべく、縁在って我が事務所に迷い込んできたのでもあった。
自分の大学生活は借金を積み重ねることはなかったから、就職先を決めるに当たっての、少なくとも報酬にかかわる発想はなかった。友人の中にも、それが切実だという話は、あまり聞くことがなかったように思う。聞けば、彼女だけでなく多くの友人が奨学金を得ながら就学しているという。バブル崩壊を控える浮かれた時代の我が学生期と今の時代との違いなのだろうか。少なからぬ学生が、社会人になった暁の稼ぎを担保に、ようやく学業の機会を得ていることを遅ればせながら感じた。
その稼ぎの源を蓄えるために大学に通うのだから、就労条件とのトレードは自然とも思われる。しかし、よりよく働くための家なのか、家のために働くのかわからなくなる住宅ローンと同じように、よりよく働くための大学なのか、大学のために働くのか、本末は転倒することもあるのかもしれない。大学が各人の適性を伸ばし、自由精神を育むところであったとしても、お金を借りて通うことになったトタン、その先に待ち構える不自由さに、その種の不自由さが加わる。
そういえば、別の学生に、彼は中国人の大学院生だが、やはり自分で働きながら生活費と授業料の100%を捻出しなければならない状況の中、学業に打ち込めないどころか、身体を壊し、卒業を逃し、留年の費用がかさ増するという悪循環を送っている学生を思い浮かべた。彼は、本当に勉強をしたいといいながら、学業に打ち込める環境を自分の力で整えることができないでいる。そうまでして、大学の卒業学位は必要か?という無邪気な疑問を押し殺しつつも、お金のかからない、社会的地位の獲得の仕方はないものだろうかと、はたと考えてしまう。
ここから先が夢想なのだが、かつてのデッチボウコウのようなシステムが、もし社会的にある位置を再び獲得することができないものだろうか。かつてのデッチボウコウは、職人の世界にあったことだから、職人になるのでなければ関係ない、と考える必然はないはず。返済型の奨学金のように、ツケを後回しにせずに、学びながら返す、この超合理性が、なぜ今に生きないのか、不思議な程である。学費のかからない教育機関、つまり、営利組織のある種が、教育的成果を背負っていくスタンスももっと定着してもいいはずである。あるいは、かつてのバウハウス工房のように、大学が営利部門としてのモノづくり部隊・現場を運営し、その枠組みの中に、無学費無報酬の「学生」が生存できるのではないか。社会全体が、低成長+低収入+重税化へ向かうのであれば、第三の大学の像は必然のように思う。