昨日は、建築家であり、我が師である石山修武との最後の授業であった。20代後半から学部の授業の一部を手伝うことを強いられ、先生としてのトレーニングを課せられてきた。何処の馬の骨とも言えぬ我が身が、学生を教えなければならない壇上に立つこと自体が、正直たまらなく辛かったころを思い出した。
それから16年が過ぎた。独立してからも先生業としての修行は続行された。つまらぬコメントをしたときには、容赦なくその場で、叱咤された。先生として教えている立場であるのに、そいつがヨコから怒られている光景、これはまたこれほどみっともない光景もなかろうと、身を恥じることも多々あった。
だが、天才ではないから、いやがおうでも成長せねばならない環境から与えられたものは大きかった。その環境を与えて貰った師には一言お礼ぐらいはしなければならないだろうと思い、茶菓子をもって出かけた。すると目的の研究室に達することなく、その手前の電車の車両の中で、神様が引き合わせてくれたかのように、師の姿があった。
ひさしぶりに建築談義をさせていただき、その一区切りに、中国から持ち帰ってきたという本を差し出された。「新叶村」古き良き時代を奇跡的に今に伝える村の一部始終が、写真と図版できちんと記録されている。蘇州とか、兵馬俑とか、そういう誰もが知っている観光地ではなく、無名の田舎の村である。プリツカー賞をとった王澍はこういうものを自分の身体に染み込ませながら、建築を構想しているに違いない、という但し書きをもって、私に差し出された。最初は、好きな頁をコピーしていけ、というところが、結局は、貸してやる、ということになり、一冊丸まるお借りすることができた。
重量として重たい本ではなかったが、私にとっては中身のつまった師のメッセージというか、最後の宿題を与えられた、そういう意識になってしまった。何をみて何をマネするか、これがその建築家の創造物の質になる。どこかで見たなというものの方が多いこの世界、世にあるものはすべて私にも見ることができる時代に、見るものを制御することも、デザインの前段として重要な作業であるのかもしれない。
全ての創作者は大小の迷いを含みながら、物をつくっているだろうことは想像できるが、そんな時に、どこからともなく確信的な賜り物が与えられるというのは、誠に幸福である。だから、殊更書き留めておきたいと思う。