« 日曜私観トップへ戻る

2013. 3. 3

第142(日)台所考

住宅で行うほとんど唯一の生産設備として、やはりキッチンの設計は、おもしろい。というか、家主の生活哲学のようなものが、すべてここに現れる。溢れ出る「生活感」の炉心をどう制御するか、構想者と生活者の共同作業の質が試される。
そもそもキッチンは、台所という場合も含めて、一部屋として独立していて、クローズしていた。近代の萌芽と共にバウハウス~シャルロットペリアン等を経由し、結果的にはリビング(居間)の一隅、ワンコーナーとなった。女性を一人で日当りの悪い向こう側の部屋で、朝から晩まで家事に追いつめるのは時代遅れだということで、主人や子供のいる居間に引き寄せたということになる。すると、もともと生産設備であったキッチンは、矛盾を孕んだまま、家族の団らん空間に向けて見栄えよい立ち居振る舞いを迫られることになる。裏方であることを隠すのか、さらけ出すのか、現代のキッチンを構想するときに、一度は二者択一の方針を議論することになる。
先日、施主さんの一人から、興味深い話を聞いた。東欧のどこかの国のお宅で台所作業を見ていると、あちらの料理というのは、例えば日本の料理とは異なり、作業そのものが手間がかからないから、見せるキッチンを構想しやすい、というのだ。極端にいうと、ちゃかちゃかと素材を切り、鍋にしき並べて、オーブンに放り込めば、後は横で新聞でも読んでいれば、主菜が完成する。それに買ってきたパンや飲み物を添えればいい。それにくらべて、日本の料理は、軽くおふくろの味、という程の料理であっても、新聞を開いて待っている時間など生まれない。普通にきちんとやろうとする日本の料理とは、下ごしらえの積み重ね、手間の嵐。一食を作るために、収納から引き出さねばならない道具や皿の量が異なる。和食を作ろう、というのなら台所は、本当に生産設備、ここは見ちゃだめよの鶴の恩返し状態の性格を帯びる。
私たち構想者がキッチンを語る時に、何(食)を作るのか、というところが、しばしば抜け落ちる。もしくは、何を作るのに適しているか、対応できるか、というのが抜け落ちる。カタログに映える美しいオープンキッチンのスタイルは、基本ヨーロッパが生みの親で、やはりそこで作られるものの食文化が、背景としてセットになっている。生活者に食文化のなにがしかを導く役目が構想者にあるかどうか、あるいは求められているのかどうかは微妙であるが、生活者の食文化を想像できる知識、経験、感性を少なくとも構想者は備えている必要があるかもしれない。
多くのお宅拝見系の映像に、必ず、食事の団らんシーンがあるというのも、キッチンが住宅建築においては、欠くべからずの風景であることを示している。構想者の目線はキッチンというハードウェアをなめ回すが、思いの外キッチンそのものは、取り分けて驚くようなものではない。むしろ、パスタとサラダ、ブレッドとワインを皆で囲む美しいキッチン、という申し合わせたような風景の定型化には興味が起こる。構想者としては当然、定形外を構想する楽しみが残されている。

« »