九大大橋の授業として松村秀一先生が来福されたと聞き、大学の講義に、誰がどう見ても学生でない我が身を忍ばせた。およそ10年ぶりに伺ったが、やはり松村氏の話は興味深く、そして面白い。構法の研究者として、住宅生産における大量~少量生産の両極をいったりきたりしながら、日本の量産体制の世界における特殊性を力説する。
あぶり出される問題点のいくつかの中には、量産体制が産み落とさざる終えない大衆的デザインの滑稽さも含まれている。純粋に構法=技術論のみに留まらず、どこかにデザイナー的視点を持っていて、そこが自分たち作り手との接点となっている。
後半、氏が、まったく前半とは異なる話になると注釈を付けて話したのは、「利用の構想力」と題された、つまり、造ることよりも使うことの構想力の重要性について。リノベーション、コンバージョンといったお題そのものは、もはや新しいトピックではないが、しかし、それらを技術論やデザイン論という造る側の論理ではなく、使う側の構想力や行動力の重要性を述べていたことに、はっとする。
住宅や公共施設など、建築は使われずに余っている。まだ使えるからもったいないという動機も、歴史的に重要であろうから残したいという動機も、そこまでは簡単であるが、いったい誰がどのように使い、原資を得て維持されるかとなるところで、その建築の存続の話はおおよそ棚上げされる。使い続けるためのハードウエアの構想力を私たち(建築設計者)は身につけたのかもしれないが、使うためのソフトウエアの構想力、そして実行力を備えているわけではない、というジレンマが立ち上がる。
もしかしたら、これからの建築学生のある部分は、建築を造るのではなく使う構想力を備えて社会を渡るようになるのかもしれない。既に、そういうことを希望する建築学生もちらほら見え始めている。
これまで、世界に比して、異常な量を造りつづけてきた戦後の建築体勢は、やはり節目を露呈している。造る構想力に加えて使う構想力の必要性、大企業のみ成らず、少量生産だからと無害のフリをしている我々にも変革が迫られているような気がした。