お昼にうどんを食べながら、眼前の厨房風景を眺める。「Mのうどん」庶民派的人気店の一つ。ここは、機械打ちではあるが、常に打ち立てのうどんが出てくる。生地まではおそらく開店前に予めこねられているが、そこから先は機械式ローラーで延ばされ、ガチャンガチャンと機械式包丁が切り、その切り立ての麺一本一本は丁寧にベルトコンベアーによってゆで釜に放り込まれる。オーダーがあってから伸ばしていては、当然客を待たせてしまうが、来客を完全にサバヨミ、麺は先行投資で茹でられている。おそらく、いま食べている麺は、この店の1km手前で急いでいた私を当て込み、釜へ放り込まれたものである。この機械打サバヨミうどんラインは、路面にさらす硝子張りの手打ちコーナーとは、似て非なる。素性が、見せるためではなくストックすることを嫌うがための、うどん店の切なる生産ラインのほぼ全貌である。フォーディズム的(近代工業的)思想からすると、まず、うどん玉はきちんと分量を揃えるために、予め一人前単位で箱にストックされるべきとなる。ここのように、一人前の麺量が職人の手先に依存しているなど、信用できないはずである。そしてなによりも、客の注文の裏付けがあって釜へ挿入するのでないと、ゆがく時間という意味での生産ムラがでてしまう。ゆがき過ぎをふせぐのは、釜を睨むうどん職人の勘のみとなる。からくりがあるとすれば、麺の硬さを「カタ」「フツウ」「ヤワ」の三段階で客に選ばせることによって、生産ムラをサービスとして昇華しているところだろうか。
機械打ち生産ラインとそれを稼働する1人のうどん職人との一蓮托生、これがこのうどん屋の生気の源である。労働をシステムとして整頓せずに、働く人間(うどん職人)の経験に基づく直観、勘に託すことによって、生産ラインとしての合理性得ることが出来、また客は生々しいうどんを食べることが出来る。
さて、その夕方、新宮のイケアへ。ペーパーホルダーや、タオルリングなど、「漆喰と木の室」で用いる小物を漁りに。多くの人たちが口々にするのと同じく、こんなものが799円?の連続。焼き付け塗装された鉄製のキレイなペーパーホルダーが599円、イサムノグチ風ペンダント照明が1500円。プラスチックの普通の便座だって5000円近くするところを、ステンレスの表面を持つ便座が2900円。もちろん値段だけではない、デザインも(ものによっては)優れて良質である。工業化を目指したのなら、ここまでイケヤ・・とは誰も強いたことはなかったはずだが、イケヤは来た。デフレだから、というよりも、工業化時代が情報化時代を迎えたことによって、ここまできたのだ。ある種の到達点といっていいのではないか。
工業化時代の到達点、仕上げは、何をもたらすだろうか。
みんなあの服を着ている。
みんなあのエコカーを乗っている。
みんなあのスマホを持っている。
みんなあの家具でインテリアを飾っている。
もしかしたらであるが、むしろその果てに、工業化に載らなかったモノを見つめる感覚が再燃するかもしれない。すべてを他人と同一のものを私有することの不自然さがあぶり出されるかもしれない。生活の主流ではないが、なくならない非工業的ものづくり。手で造っていくことの立ち位置は、追い詰められながら、意味を問いただされながら、延命を求められている。