カットサロンで散髪してもらいながら、世間話をする。美容業界では、慢性的な人手不足と聞く。若い卵達が働き始めて、長続きしないのだそうだ。キムタク演じる美容師が主人公のビューティフルライフという2000年に放送されたドラマが火付けとなって、若者がごっそり業界へなだれ込んできたが、その後はあっさり引き潮となり、今の人手不足に至っている、ということらしい。
そういう話は、我が身に関わることと無縁ではない。やはりキムタク演じる建築デザイナーが主人公のドラマが何時であったかは忘れたが、話題になっていた一瞬を思い出した。そして現実の世界でも、スター的な建築家の社会的浸透(=メディア出現)していたころであった思うが、やはりそのころに建築学科を目指そうという学生が急増した。当然のことながら、ブームと呼ばれるものの騒ぎは一時的なものに終わる。
こういう番組があったと、家内が気を利かせて録画してくれたものには、福岡の人気店シェフが協力して、離職率の高い飲食業界を基礎を作り直そうと、私設マイスター学校の姿が映し出されていた。1年間のカリキュラムの中で、内7ヶ月間、実際のお店に属して実際の厨房で働くという研修期間が課せられる。学校法人を取得すると、その部分(実際の厨房で働くこと)が不適となるので、あくまで私設を貫いている。それら実施をくぐり抜けた者だけが、その種の卒業証書を与えられる。その学校はいわゆる、実社会で働くための「ふるい」である。
建築を目指す若者にとっても、内的欲求の充足を夢見ながら、外的要求による受難に甘んじる世界が拡がっている。職人であれば、それをかつては、デッチボウコウ制がうまく、社会との緩衝材として果たし、若者を育てた。授業料を払う学生と、報酬を貰う社会人との間の状態であるから、どちらも発生しない。教えるための特別な施設やプログラムの必要もないかわりに、仕事における量的責任、決定的な責任もない。一方、師の私生活の多くと触れてしまうことにより、職能のみならず、全人格的な教育が含まれてしまう。デッチボウコウ制度は、ペエペエがイチニンマエになっていくためには、きわめて合理的な教育制度であったと共に、師弟という個人的世界、社会に対して閉じた制度であり、それゆえ、労働基準法的には不明瞭な世界とも見て取れ、その他諸々の社会意識の移り変わりの結果、現代から消えていった。それでも、その実社会への「ふるい」として、これ以上の合理性はないから、現代的なデッチボウコウ制度が国レベルで、一部再生しつつある。(大工育成塾 http://www.daiku.or.jp/top.html)
建築設計の一部の世界では、そのデッチボウコウ制度が体質的に生き残っているということになるかもしれない。一般的な大学の建築教育では、設計技術というよりその手前の素質を伺う所であり、特別な環境(研究室)を除き、その卒業証書は実務に適しているということを必ずしも保証していない。だから、各設計事務所が、「研修期間」を持たざる終えない。その「研修期間」の「待遇」「条件」はもちろん各事業所でマチマチであるが、あまりそういう詳細に関わらず、離職率というのはそこで発生する。「ふるい」の場は相変わらずクローズしている。
人を「ふるう」とは言葉がよくないのかもしれないが、逆に言えば、人はふるわれるもの、と潔くあるべきかもしれない。
人は自分がなにに適しているのか、はっきり自覚できているわけではない。若ければなおさらである。その時、彼らの目の前には学校(法人)が並んでいる。それらは優れた学びの場ではあっても、必ずしも「ふるい」であるとは限らない。ふるわれるのはそこを卒業してからとなる。
なるべく若い世代に対して、「開かれた」「ふるい」が必要なのかもしれない。各々は歳を取りすぎないうちに、相応しい場所にたどり着きたいはずである。