建築家丹下健三が1956年に著した「日本の伝統における創造の姿勢」の小論、いわゆる「弥生的なものと縄文的なもの」を再度読み返した。タイトル通り、私たち祖先の創造に対する基本的な姿勢の在りようを、端的に、ドライに批評していて、歴史意識、好奇心が掻き立てられる。多くの先人に引用されてきたこの小論を、恐れず右に倣えで要約すると、日本文化と言われるものの根底は、縄文的なものを未消化のままその後の弥生的なものが支配し、それは、例えば世阿弥における能、利休における茶、苔庭、数寄屋、等にみられる侘び寂びであり、すべて「もののあわれ」という言葉によって表されるとされる。さらに、「自然に対する消極的な鑑賞・・感覚的小世界・・私的な開放性・・自然へのよりかかり・・または沈潜・・閉じ込められた生命力、裏返しにされた生命力・・と思いつくかぎりの言葉で言いくるめて、ついには「このような限界を自覚しなければならない」と断言している。ここに挙がった東山文化の類は、だれがなんといっても日本の伝統であり、大事にすべきものではないか、と反論したくなるが、果たしてそれらのなにがどう限界なのか。
「このような消極的な姿勢は、また技術の停滞として反映されてゆく」
「この停滞した技術は、生活の多様な展開に対応してゆくことができなかった」
というのである。近代を担った者の冷静な洞察、これには異を唱える余地がない。(こういう話の時に私が引き合いに出すのは、製紙技術の歴史。唐から西と東の双方へ技術が伝搬していった製紙技術のなれの果て、西にはアート紙なる高性能の製紙が生まれるが、日本の和紙は、技術敵にはほぼ唐紙のまま、近世を迎えた。)
私は、日本人の美が私的な開放性や、感覚的な小世界に安住しやすく、ゆへに、アポロ的(理性的、知性的・・例えば「アポロ宇宙計画」というのも・・)な技術の展開がなされず、世界に比して停滞してきたというのは、事実として本当にそうであったと思うし、確かに自覚をすべきだと思う。ただ、アポロ的技術革新の副産物なにがしが、地球や人類の持続を阻んでいることを考えると、技術が停滞してしまう日本の伝統は、悔い改める一方ではなく、これからの人類のために学ぶべきではないか。(というか、そのことは既に叫ばれている。)いみじくも丹下さんは、「例えば、ゴシックは、新しい技術をもって自然と対決するような空間を獲得したが、これを人間が自然から獲得した空間と呼ぶならば、日本建築における空間は、自然から与えられた空間ということができるだろう」と言っているが、自然から与えられたようにモノを作ることのできるというのは、見方にとっては希有なものづくりではないか。近代の次の時代を切り開こうという我々としては、むしろ新鮮な姿勢として映らないか。当時は、「このもののあわれから風流にいたる伝統は、今日、私たちの内部にまで届いているのである。」と言えたかもしれないが、2012年の現在の私たちの内部にまで届いている、かどうかは怪しいのではないか。なにせこの論文の時代背景から56年が経過しているのだ。「もののあわれ」は知らぬ間に日本の伝統における絶滅危惧種となったと危惧してはどうか。
2012. 11. 4