デザインビルド福岡のプロジェクトが今日、一応完成したということで、夕方、ビールを持って現場に出向いた。子供から夏風邪を貰い、それを実直に培養してしまったため、彼らの現場は、私の中途半端な老婆心に侵されることなく、正真正銘、彼らの現場となった。日本中が熱射病の危機にさらされる中、小さな建築物とはいえ、職人の身体を持たぬ彼らの力で灼熱の大地にこれを完成させることができたのだから、プロセスとしては大きいはずである。
フォーリー繋がりということで、ふと、市内の埋め立て地のものを思い出した。かたや数千万円、こちら十数万円。どちらも学生や若い建築家達が設計したもの。こちらは、しかし、設計者自らで施工を行ったもの。現物に比して、情報乱造のこの世界、設計=情報を産んだ者が、自ら実現=施工せねばならないというルールそのものは、理想的であるはずだ。もちろん、時代性を埋め合わせていると片付けるにも惜しい。そもそも建築(家)を造るとはそういうことであったと、解っていたはずのことに改めて深くうなずくのである。そのうなずきが、関わった人間のみのものではなく、第三者に及べば尚良いが、それは今後にあらわとなる課題であろう。
それにしても、若手の作り手のためにと本当に案ずるなら、「こちら」のプログラムに未来があると思った。「こちら」の積み上げられた廃材の木片ブロックは、よく見なくても、水平が得られておらず、素人の臭いの残るものであった。しかし、それでも、全体のイデタチは清々しく見えた。気のせいだろうか。木片ブロックの積層は、清々しい建築的意志の積み重ねであったのだろうか。それが、結局は、建築の品位のようなものに繋がったのだろうか。
2012. 8. 19