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2011. 9. 11

第126(日)桧山タミ先生の会

オーバー80の先達から、学んだこの夏。8/19日の池田武邦さんとのシンポジウムに引き続き、その1週間後に桧山タミ先生を囲む会に参加。言うまでもなく料理の師・桧山先生の門下、その他縁のある方々が毎年この時期に桜坂の料理屋「今ここ」を貸し切って、集まる。参加ルールは、一人ワンフードワンドリンク。ドリンクは購入するにしても、料理は、当然のことながら、手料理が不文律となっている。50名を軽く超えてあつまるから、単純に考えると料理は50品目以上が並ぶ。まずは、この品数に胃袋と舌が反応し、思わず参加を決意。事務所のスタッフも、苔むす建築事務所の扉を開けて一旦明るみに出よということで、半強制的に参加。自らは、庭先に繁茂する「シソ」でシソペーストを作り、それを和えたジャガイモと、鶏もも肉を持参する。無数の料理が案の定、敷き詰められていて、いわば自然食レストランバイキングの状態。しかしどれも、当然、(経済感覚から自由であるが故)手間が込んでいて美味しい。
料理の味は、いくら書き連ねたところで伝えられるものではないので、書き留める本来の目的の、桧山先生のお話へ。およそ10年ぐらい前に、とある人に先生を紹介いただき、その時にこの方は普通の料理の先生ではないことを知った。以降、おそらく科学的に解明が進んでいくであろう、人間の心がモノにどのように影響を与えるかを感覚的に、しかし、確信を持って捉えている人と思った。
「料理を食べるとそれを作った人の心の状態がわかるんです。貴方家族とケンカしてきたでしょ、というと・・」
「身体の具合が悪いと、たとえばその人がパンを作ったりすると、うまく膨らまないことがあるんです」
そんなことってあるものかと、10年前のフレーズをずっと覚えていた。

今回も、おおむね基本的な話の力点は変わらない。

一つだけ、心に残った言葉。

「きまりというのはないんです。自然に従えばいいんです」

「きまりがない」・・前節から意味が多層する。きまりとは、人間の理性と置き換えていいだろうか。料理でいうなら、レシピみたいなことか。レシピは不要というのでもなかろうが、しかし、レシピを信奉するよりは、そのレシピを成り立たせる背景を信じなさい、ということになるだろうか。「自然に従う」は、単純に旬の食材を用いるという当たり前から始まり、そして素材を活かそうと素材と交歓することだろう、というぐらいのことまでは想像がつく。(旬の素材を用いるなど当たり前だというかもしれないが、私たちはスーパーマーケットで、旬の素材だけを選び抜くことができるか?そんな基礎すら消え失せている)

11/15日の外尾悦郎氏の講演会パンフに書き留めてあったガウディーの言葉とも、繋がってくる。
「人間は創造しない。自然の中から発掘するだけだ」
桧山先生は、ガウディーのファンなのであろうか。いや、ガウディーのこの言葉は、逆に、日本人的な「創造」観に近接しすぎている。(原子力技術は、人間の創造か?それとも自然の中からの発掘か?)

桧山先生は、自ら発した言葉、教えが、活字になったり映像になったりすることを、基本的に好まない。生身の人間への伝達でないと語弊を生むからだろうか。つまりは、こういう盗み伝えが公開されることをおそらく好まない。しかし、特別な感性を携えたこの人のこの感性を、これからの私たちは大多数で共有、もしくは、コモンセンスとして受け入れなければならない時代なのではないだろうか。そう考えると、不躾ながら、是非ともその言葉はお借りしなければならないのである。もっとも、これらの言葉は、桧山先生のオリジナルだとも考えるべきではない。ある種の特別な感性を持った達人たちが異口同音に発する言葉の類である。オリジナルではないからこそ、自然に拡がりを持ってしまう。桧山先生は、あくまでも料理を通して、それを感じ、限られた縁者へ伝えてきた。であれば、その門下にならなかった私たちには関係のない言葉、か?
そうとは思えないから、おしかりを承知で、こっそりとここに書き留めておく。

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